考えたこと

よくわからないところだらけですが、考えたところを述べてみます。

  • 先月からの身体の異常と精神状態の異常は事実ですが、これは独りで修復するべきものだと考えてはいますが、異常を気遣ってくださったことは非常にありがたく嬉しいものであると感じています。
  • 最近の相互関係で「いじめ」と認識した出来事はありません。私自身、それ相応の手続きを踏んで、責任を取りたいと考えていますので、いじめ、という状況による責任の剥奪はしたくありません。要するに、「いじめ」というのは第三者が介入できないままである点において「いじめ」となりますが、第三者が即時介入可能な時点で、それは「いじめ」という事象ではない、と判断しています。第三者が介入せず、それが連続的に長続きとして行われていることについてはそう認識できうるだろう、と考えています。
  • また、攻撃的な態度をとったと判断した点と、それに関与したということにおいて認識できたこと、またそれについて言及されることについては、私個人が可能な範囲で応答したいと思います。
  • 仮に、わたしが「いじめ」という態度をとることがあるなら、そうした行動が無意識的/意識的に関わらず、人格や態度としてではなく、事象や行為としてその言動の事実は受け止めようと考えています。
  • 「いじめ」とは対話として成立することが出来ない事情が介入したときに浮かび上がるものである、と思います。対話として成立することが出来ない事情とは、多くが心的外傷に基づくものであると考えています。
  • 心的外傷に基づく対話成立を省くための手順としてのほのめかしとは「対話が成立できない状況」ということとして存在します。私は、それでもいいと考えています。
  • 事実が精査されないまま集団となって個人にむかうこと、また事実が精査されないまま同調現象によって個人に向かうことそのものが「いじめ」となりえるだろうと考えています。
  • また責任追及は、対話によって可能であって、それ以外での言及ではそうはならないことになる、と考えています。本人が訴えるか、そうでないかという境目は難しいことになるのですが、責任は自分自身で判断するしかないのではないのではと考えられます。

態度

「私に蓄積された全情報から観察・統合・出力(本からの入力や文脈や態度など)」されたものという情報に人格はない、と思っている。一つの記述から態度が見える場合と見えない場合があるんだけれども、多分私は「記録を観察する観察者」という態度しかない気がする。

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