記述の限界

思いのままに書いていると、当然解釈や誤読が生じる。その解釈がある意味救いでもあることを私は知っているが、それに対して否定している、ということを自分自身述べていることを知らないまま、否定になってしまっていることがある、らしい。「理論」と「自分の世界観に対しての呟き」を一緒にしてはいけないとは思いつつ、癖で、小説のノリで書いてしまうことがある。「記述」にしても「形式」が必要。小説にも三人称、一人称があるけれども、三人称と一人称を一緒にすると混乱が起こるのと一緒だろう。私はどうもこの混乱の気がある。「〜と思った」と書くのもバランスを崩すとか、そうした癖が以前にはあったことが(最近はできるかぎり気をつけるようにはしているけれども)まだ残っているのだろう。
私自身「何が原因なのか」ということ自体が分かってないことがある。この認識の限界で対話の食い違いがある、ということは理解している。二次元平面しか捉えられない、未来に起こる感情が理解できないという壁なのだろう。理由や原因を直接対話することによって言葉で示されなければ「無限の可能性」から可能性自体に押しつぶされ、結局わからない、ということなのだ。相手の感情も、自分の感情も分からない。つまり、どれくらい「相手」にどんな細かな感情を抱かれているか、また、細かな感情を抱かれることになるか、ということが今でも分からない。たぶん、直接論理的に感情を「説明」されるまでわからないのだろう――感情はトートロジーであることを知りつつ理解したいと思っているからこそ、「感情」を言葉にするという執着がここにある。ただ、私の「感情」は「分からない」ながらもどこかで出ているのだろう、と思う。だからこそ、相対する相手に何がしか感情を喚起させている。それは、あるだろう。たぶん、としかいえない。暗闇の中でわからないまま手探りをしているうちに相手の反感を買ってきりつけられる、ということが多いだけの話である。また逆に、こちらが相手を切りつけている(と相手が受け取る)こともあるのだろう。私自身は、意識してそうしたことを行っているわけでもないので、感情的反撥によってきりつけられることの意味が分かっていない。途方に暮れた後、わけが分からず感情で返すことができないままになってしまう。
何度も文脈が重なる条件が多くなると「私の事を言っているのか/言っていないのか」という0と1の解釈でいつも私は悩む。直接コメントなどに書いてくだされば、私も返答のしようがあるけれど、遠まわしに「こちらの態度に感情を見出す」という記述があると矛盾によって同時に脳がオーバーフローしてしまう。ただ「感情」をこちらの文章に「ある」ものと仮定する人が多く存在する限り、そうした感情面に対処する文脈も考慮する必要があるのだろうと思う。
私は自分の考えをただ記述し提案することしかできない。そして、これまで――(これからも、かもだけれど)私の言葉に困惑させてしまった方には申し訳ないと思う。

ブクマコメントのお返事

mind  私の「感情」は「分からない」ながらもどこかで出ているのだろう …だからこそ、相対する相手に何がしか感情を喚起させ ――私から観れば、れいんさんはむしろ慎重に発言している少数派です。このままでいて、です♪

mindさん、ありがとう。
私にとっては慎重にしてし過ぎるということはない、というくらいしても、やっぱり「感情」方面が知覚できないことで、思わない「感情」が向かってくることがあります。感情を共感するということはたぶん、「波長を合わせる」ということなのでしょう。「波長を合わせる」のではなくて「感じ取った波長を解析する」場合、他者にある感情を解析するだけです。そうしたとき、感情は「波」のように浮き上がってくる。
それで言えば、mindさんの波長は知恵の飴をその人にあった形で少しずつ手渡していく、ように感じられる。