書くことの意義

サバイバルのための人体実験を公開すること - My Life Between Silicon Valley and Japan
「モノを書く」ということについて。私もそのことにはとても共感を覚えました。「書くこと」の限界とできることの限界の標準を絞る、という作業にこそ、梅田氏のいうサバイバルという原義が含まれていると思いました。
諦念を抱いている場合、梅田氏の定義する「サバイバル」は欲していない。意思を抱いて何かを「為そう」としても失敗すると思っている。その確率が高いと感じているから、または物理的な余裕がないから為せないと感じていることがある。梅田氏の記事を読んだ「時点」にどのような気分を抱いていたか、ということでその成否が決定されることもあれば、本当に落ち込んでいる、ということもある。
疲れた、という前提にある人にどう「変化」をつけるかというところが難しいと思う。物理的.精神的に介入する、ということが「出来にくい」からこそ「変化」の付け辛さというものがある。「すればいい」ということで物理的/精神的な疲労が回復するわけでもなく、そのあたりを個人がどう「少しずつ」行動できるかが問題になのでしょう。
反撥している、ということが梅田氏にとっては気がかりであるのかもしれませんが、仮に「aが単一として正しい」という主張のみを述べる文脈のみでは「aではないものは正しくない」と暗喩的なメッセージを読み取った層が反撥しているのだと思う。また、それへのフォローがないまま主張し続けることで、イナゴとも呼ばれる現象にまで発展することもあります。それに後続して同意した層が連なって、雪だるま式に賛同反論で埋められる現象が炎上、であると思っています。