或る言葉のimage

言葉とは「感覚」を総動員して搾り出すようなものだ。そうではない場合があるときというのは、私以外の物事について語るときだけであり、そのときだけは向こう側と言葉を交わすことが出来る。
想いを総動員することなく言葉をそのまま出しているかもしれないと感じることがある。単語だけ出せばいいと感じて出している――ように見えるときがある。動作や振り付けのような大げさな表情を作り出している――ように見える。そう「見える」としか言いようがない情報を受け取ることがあるのである。そのとき、私はその場で立ち尽くし「置き去りにしたいがためにそう受け流しているのだろうか」という思いを抱く。しかし、相手はその立ち尽くしている様子におそらく「謝罪をしたのに、なぜそんな不機嫌そうなんだろう」と思っている。そして、その苛立ちは事実であり、またその言葉も、「感覚」として総動員した言葉だったはずだ。
だが、私はそれを信じられないときがある。というよりもその瞬間、一瞬一瞬の合間に、相手の情報が鏡のように私自身を映し出すしかないこと、「信じて」いても「感じられない」こと、そのものを悲しんでいる。圧倒的な断絶となって、相手と私は呆然としてその溝の前で「わかってほしい」と叫ぶ。言葉を尽くして言っても「それは屁理屈だ」「足りない」と認識した他者の言葉を受け、そうではない「感覚」を私は必死に探し出す。「屁理屈」ではない私、「足りている」私を、私ではない部分から探し出す。私の感覚は、そのたった一つでしかないにも関わらず、それでも「足りない、足りない」――と連呼する声が響き渡り、「私自身」は否認されるのである。
後で考えると、「相手の直感に適合できなかった」ということは、相手の回路の癖と、私の回路の癖とズレが生じていたのだろうと思う。そして逆に言えば、私があの瞬間適合できなかったこともまた、私が搾り出す想いの感覚と、相手の感覚が同様のものではないということを認識したためであろう。
”主体の直感と合致しない”ことを「不適合」と呼ぶならば、指紋認証のようなものとたとえられる。相手が放った言葉が、私にそっくりそのまま相手の感覚を受け取られるかどうかはわからない。その場に浮かんだ「不適合」という、不機嫌な様子をあらわした事実も、相手の世界に適合することなく、事実の食い違いそのものに相手自身も「苛立ち」を覚える。そして、私もまた同時に「何かが食い違っている」という違和感はそのままに「不満」だけが募っていく。
しかも――その「言葉」はどうしようもない。「相手」が「言葉を放った」、その事実が「相手」によって覆されない限り、記憶にある事実が消えることはないのだろうと思える。
訴えるような「痛み」は、同様の文脈を持ち類似した「痛み」と適合することによってようやくそれから逃れる術を得られるが、その「適合」する範囲は非常に狭く、逃れうるための言葉に遭遇する確率が非常に低い場合、その場に取り残される。
痛みを「訴えない」ということは同時に「訴えられない」ことでもあるが、与えられた「感覚」が仮に抗いがたく結果として待つ先が「感覚を共有したい」という望みを満たすものでなければ、離れるか、「言葉を大切にするか」しかない。しかし、「言葉を大切にする」方法を選んでも、やはりその言葉が通じないという感覚しか覚えられないことに諦念を抱くのだとすれば、また再び「たいしたことない」という、”気軽と苦悩”という落差と距離を持った言葉は放たれる。それを繰り返すことによって「痛み」と「想い」を訴えることを次第に諦めるようになるのだ。他人は変わらない、訴えてもキリがない、通じない――だから放棄したほうがいいと思えてくる。「通じ合えない」「伝わらない」という情報によって、断続的に増えていく「痛み」という、この状況から身じろぎ跳ね返す動因となるはずの「想い」そのものを放棄したくなるのである。「痛み」を放棄するか放棄しないかという二者択一に迫られる理不尽さがそこにある。そして、このようなズレは些細ないさかいでも日常的に起こりうることでもある。「通じ合える」という事実そのものを放棄し「通じ合えない」ことを前提としている私は、「助けられても」、「助けてはもらえない」のだろうという諦念的なマイナスの未来予測を持っている。
人は人を思い通りにすることはできない。反響音として、他者は”何か”を落とす。向かう方向が正反対であれば、そのベクトルの方向性によっては垂直に落下していき、上があることに気付けないまま私は落ちてしまう。常に相対するものから見据えようと”努力”し、そこにエネルギーを費やせば、目の前にある鏡は、目を凝らせば凝らすほどますます肉薄し脅威となる。
疲労と困惑と共に、私は「適合」しようとする。関わることで「引っかかり」を、せめて100人の中でも1人に伝えることができればと信じて「適合」しようとする。もし、仮にそれがひとつでもあったなら、「既に或る」伝わらない情報に押し流されてしまうかもしれないとしても「在った」という事実と、伝えられたいう記憶は、そこに残るのだろう。