返しと言葉

コミュニケーションが難しい相手というのには何種類か存在する。私が度々遭遇する、返答に困る相手というのは、まず「自分の考えが正しいと疑わず、相手の事情や葛藤に疑いをもてないタイプ」である場合と、「相手がどの言葉を発してどう考えているかが未知で予測つかない白紙の状態に萎縮するタイプ」である場合がある。前者は、相手の怒りや憎悪に気付かないまま、抑制という単語が存在しないかのように振舞う。当然、抑制が働くときは存在するが、抑制が働くのは「自分が経験した中で損かもしれない状況」だと判断して「おかしいな」と立ち止まってみる場合だ。警察や威圧感の在る人物など、自分の連続していた筈の行動や気持ちがスムーズに働かなくなったときに、抑制する機能がようやく出てくる。ただ、そこまで至っても、相手の、その時々によって変化する事情、自分にも存在するかもしれない葛藤や苦悩を「念頭に入れて」行動するといった思考はない。
後者は、自分からの提案や質問がなかなかない。出来ないのではなく、そもそも質問という言葉にならないのだ。一度情報を入手した後、更にその他の情報と照合しながらでないと「差異化」ができないことだ。与えられた情報の取捨選択が難しい。「自分の行動できる範囲」という定義と、「新たな情報」として与えられた定義が矛盾したその時、それらを行動に移し、失敗し、結果として萎縮してしまうのだ。
二つのタイプから分けられる部分とは、「他者や社会の刻々と変化する膨大な情報のショートカット不全が起こり、最終的にはオーバーフローになる」かどうかだ。他人から見て「おかしい」行動にしても「おかしくない」行動にしても、行為に出たときだけその意識の一角が顔を覗かせる。
新しい事に触れながらも、刻々と変化するものをカテゴリー化し続けていく事で、規定するショートカットとして完成させていく。自分の思考にウソというバグを敢えて発生させて掻き回しながらも、それを巧く立ち回らせて自分の益にしていくといった行動は、もはや離れ業だ。気付かない内に自然とウソを紛れ込ませている。思いつき、思考回路に生じた自覚の無い閃きのようなものだ。
「コミュニケーション不全」といった言葉の傲慢さを今更ながら私は感じる。何故なら、コミュニケーションとは双方が向かい合ってこそ成立し得るものだし、真摯になって時間を惜しまずぶつかりあいながらも袖口を擦りあわせようという懸命な作業に他ならない。その作業が簡単な人、楽な人、難しい人、そもそも最初からいつもやり直してばかりな人、色々居るけれども、不全というのはきっと「ない」のだと、今更ながらに思うのである。それは、人生全般を効率化という思想ばかりに偏らせ、生産性と労働を展望においた社会そのものが生み出した、悪夢のようなものなのかもしれない。
このように文字としてある程度時間を置いて対応できる面では助かるが、やはり自由自在/変幻無限に近い応答に、私は大変な労苦を感じてしまう。