出口からの脱出

本当は、諸手を挙げて自分も自分も、と病態に対して軽々しく手を上げてはいけないのかもしれない。ただ、そこで思い出したことがある。以前、私は「鬱病の人と鬱病と自己診断してそうだからしょうがないという人がいるから」という分析と証した分別させて定義したい心理から来る発言をしたところ、「鬱病で本当に辛い思いをしている人が、そんな発言を見たら、自分はうつ病では無くてこの辛い思いは甘えなんだ頑張らなくちゃと思ってもっと大変な事になるから止めて欲しい」という意見を頂いたことがある。そのときは自分の軽々しさに恥じ、辛い気持ちが本当ならば、それは決してあなたのせいではないのだと考えを改めた。
それに私自身、様々な定義によって自分の考え方を入れ替え、修正出来た。それらの経験は、「気付き(アウェアネス)」「経験を共有する」という境地があることを教えてくれた。私自身、「周囲に馴染もうとしない不思議な人間」として肯定してもいいかもしれないと思っている。だが、昔は今のように考えられず、自分と周囲の違いによる苦痛(と呼べるのかどうかすら当時は理解出来なかった)を感じていた。
私はかつて本を読むことに一人で挑戦し、神経を尖らせながら日本語を文字を指で追って理解し、自分が居る場所と他人との違いを、針をのみこむようなきつさを感じながら、少しずつ模索しようとした。その模索した半年間は出口の見えない砂漠を徒歩で歩くようなものだったが、今やっと砂漠の中にいくつかオアシスを見つけるぐらいになったような気がする。以前は認知できなかった事、飛躍した思考に唐突な帰結という思考から来る支離滅裂な文章は一種の電波文で、今でもその思考は変わる事はないのだが、当時は「書けないのはみんなも同じなんだろう」と思っていた。周囲の文章を公表されて、やっとおかしいことに気付き、それに気付かなかった自分を恥じた。視野の狭さもそうだが、周囲と同じだと思っていたものが違っていた事実が追い討ちをかけるように、私を更に落ち込ませた。「みんな、もしかして知っていたの?」というある意味裸の王様の気分、井戸の中の蛙の失望感。
もしもの話、自分自身定義できない問題でそもそも認知できない場所にいる人がいたとして、「自分もそうだ」と思っていると思えるような文章を読んだと仮定する。そしてそれが、社会的に認知されていない病態だったとする。そこで、「自分の辛さはほかの人も感じているんだから定義に寄りかかってはいけない」などと思っても思い込まないようにして欲しい、ということを言いたい。少なくとも、「自分の事かな」と思える事があるのならば、それは少なくともアウェアネスの入り口に通じているのだから、その入り口を自分から気付かない思考形態に持っていっては、もっと正体のわからない苦しみが増えてしまう。
私は、文章のデータを共有しインプットする事で、気付く人がいればいいかなあ、といつ無神経な発言になるかもしれない文章をアウトプットしている。自分の事に気付いて正体を知る事が、一番の入り口に立てる方法なのだと経験的に分かっている。それが厳密かつ正確なものではなくても、「重要な事柄」だと考え、認識することが困難であろうことに挑戦している。
また、時折自分がまだ井戸の中の蛙になってやしないかびくびくしているときがある。その度にまとめきれない広大な砂漠の中を、重い腰を上げて足を踏み出し、情報を自分の中に吸収している。そんなことしてるから疲れるんだろうなあ、とも思うけれど、まだ根っこのところで、自分の性質は克服できるという希望だけは持ち続けているのかもしれない。