メタ視点の有益性

メタ視点という思考の道

例えば、一つの一車線道路があったとして、そこに車があるとする。私はその車に既に乗っていて、ハンドルを握っている。進んでいくと右、真ん中、左といった三叉路に別れていた。看板も何もなく、何処へ進めばいいのかもわからないから、とりあえずどこへ進もうかと悩んでいると足が勝手にアクセルを踏み出しハンドルが3つの道の一つにハンドルを切り始めた。はじめはどこへいくのかと不安になったが、次第に、はじめは三又に分かれていた道の事などすっかり忘れてしまっていた。
これがメタ視点をするときの、私が持つ感覚だったりする。自分が何を考えているかも判らないのに、勝手にメタ視点をはじめてしまうのだ。勝手にメタ視点をはじめてしまったら、そこにはもう俯瞰的な感情は存在せず、メタ視点を走査する私をさらに見詰める私が存在する。もしも、文章の端々に嬉しさや怒りがもしあるとすれば、それはメタ視点を走査し終えた瞬間、「常識」や「善悪概念」と照らし合わせる事で浮上するものだったりする。感情は、周囲に適応するための技術なのだ。
そういった感覚がない人から見れば、いわゆる「電波ゆんゆん状態」だったり、それを口にしてしまえば「何考えているか分からない人」という烙印を押される。――まあ、口にすらしない事でも最終的に「何考えているか分からない人」になるのであまり意味は無い。少なくとも私からすれば、言葉に出さないことは周囲に適応しようとしてしいる表れとも言えるし、言葉に出して表明する事も、また周囲と不適合を起こすまいと修正するための行為だったりするのではと思っている。外部から見たら、そうは見えないだけなのだろう。見えないだけで、内部では様々な現象やアクションを起こしている。
周囲の人がよく言う「これ好きなんだよね」という言葉に代表されるかもしれない。また、いずれエンジンが切れて止まってまうので、疲れ果てて息を切らし帰って来た途端「好きだったのにやめちゃうの?」とも言われることもある。そんな些細にも見える周囲との軋轢が、次第に「現実と自分との境界を理解しなければ、いつかだめになる」と危機感を感じられるようになり、言葉を大切に、厳密に分割していく作業を行って、それを理解していく。
私はメタ視点とメタ思考を分け考えていて、メタ視点は「切替や移動が可能な視点」であり、メタ思考は、「言葉をメタでしか捉えられない」という思考回路であると認識している。ただ――メタ思考の落とし穴に気付いている人もいない人も、「視点そのものを切り替えることができない」ことに気付いていないことも少なくない。通常なら切り替えられるからこそメタ視点は面白く、ゆえに効果を発揮するのであって、それのみに没頭すること自体は有益、有利とはいえない。他者に通じる経験不足からメタ思考が人生に有利だと思い込んでいる人も中にはいるかもしれないが、少なくともメタ思考をしている人間は、「自分があまり芳しくない立ち位置に居る」と自然と気付ける立ち位置にいるはずである。その陥弊を考えてみた。
結論から言ってしまえば、「メタ視点を切り替える事の出来ない人」は、言い換えれば「メタ視点が最も適した思考だと感じている人」だといえる気がするのだ。つまり、それのみが唯一の正しい道筋であると考えている。メタ視点を捨て行動する事のほうがよっぽど有益に違いないといわれていて、実際そんな成功談が現在数多くあるのに、どうして「捨てられない」のか。「生存に敢えて不利な行為をする」と考えること自体が見当違いなのではないのか。むしろ「予測を立てて苦痛を回避する事が目的」ではないかと思う。精神医学用語か何かに「回避」という名前がつけられそうな状態だ。メタ視点を行っている人は周囲に適応しようと思考しているが、もしそれが一向に適応状態に持っていけない場合、現実の環境が生き辛さになっているからなのではないか。
内在するエネルギーが少ない状態、もしくは、エネルギーの使い道が分散して結果としてひとつの事に注ぐ力点が弱まっている状態、エネルギーを使用する認証鍵が足りずエンストしている状態。そんな人は生き辛さを回避してエコに努めているけれど、エネルギーを消費しなければならない社会では行動するためのエネルギーが削られるから、苦痛が起こるたびに「生き辛さ・危機感」を抱く。だからこそ「メタ視点から演繹的に見下ろす事で、現象を回避してエネルギーをできるだけ損なわないようにしよう」という考え方は至って""前向きな考え""に過ぎず、またそれでしか適応する方法が無いからこそそうしているのだ。