視野の広さ、という主張をする檻

自らをメタ視点でパラメータ化・見下ろし化する傾向が、“戦略的に自らの人生をマネジメントすることに慣れているが故に”であれば良いのだが、私見では、“多くの人はそうではなく自らの人生の影やドロドロしたものをcut offする為に都合の良いメタ視点に耽溺しているのではないか”、と疑っている――例えばハルヒキョンのように。とりわけ、ゲームプレイヤーからのメタ視点の如く自分自身(或いは他人)を照覧することをやたら好む人達において、彼ら自身が自分自身の人生をそのメタ視点から管制・操縦しているという印象を受けたことは本当に少ない。

私達は、自らの人生をゲームになぞらえる程にメタ化視点に慣れすぎている - シロクマの屑籠

私の場合、状況に対してある程度自分自身でシュミレーションした後でなければ、酷く混乱する事がある。「こうしたらどうなる」「ああしたら、こう返される」ようなことだったりする。けれど、それは操縦するために行うのではなくて、せめてもの不安要素を取り除きたいからなのだと思う。私は一時期「これは私が感じている感情や辛さではなく、どこか遠くにあるものに違いない」と思い込もうとすることで、その時期を耐えていたことがある。それ以外に、方法を知らなかったからだろう。
そうした状態を「ゲームの操縦だ」のように言い切ってしまうのは、かなり乱暴な言葉だと感じる。
ただ、これには「現実や事実からちょっと離れてみてみたら、人生はゲームのように洗練した美しさがあるじゃないか?」と言っているようにも見える。文面からではよく分からないけれど、辛い時期を乗り切る方法を「メタ視点」に見た、というようにも見える。前向きで、人生というゲームに対するひたむきさが存在していながら、逆に、本当の人生はゲームほど洗練もされてはおらず、ぐちゃぐちゃのノイズだらけということを、意識的にか無意識的にか感じ取ってもいる文章のように感じる。
神ゲーだという視点から考えられる人と、糞ゲーだという視点から考えられる人は似ている。そもそもゲームのように、人生は調律の取れた予測のつくものだと思えるような環境にある場合、周囲が一生懸命環境を整え、それで食べて、寝て、命の危機を感じることもなく過ごせているという事実に気付きにくい。予測もつかず、他人に引き上げられれば落とされ、また他人の都合で引き摺り下ろされ、といった環境では「頑張る」とかそういう次元がそもそも難しい事態であり、ゲームとして生きることができる人の視野に怒るのだろう。自分が果たして恵まれた場所に住んでいるのか、あるいは恵まれているからこそ危機を感じる事ができないで居るのか。豊かさや安定感のある人間が持つ考え方だからこそ、ピンとくる人にとって見れば、その余裕が壊されればそのメタ視点は崩れてしまうほど甘いと感じられるのかもしれない。
純粋に「これって面白いよ」と笑って話し、「楽しくない、つまらない、いつまでここに居なければならないのか」という人に「あー、ヌルゲーしかしてないから、楽しめなくなったんだね。ま、俺はハードモードを楽勝だけど」ということは子供のように無邪気な人間の言葉であって、それ自体には、違和感を覚えつつも、ずっとそうだったらどんなに幸せか、と感じられる。
ゲームは勿論楽しい。人生も、辛い事もあるからこそ楽しさもあるんだろう。美しさに目をみはるのもいい。友人と楽しさも苦しさも分かち合うこともあるかもしれない。けど、そんな「美しさ」はゲームにたとえられるほど、簡単に手に入るものではないと思う。
メタ視点によって自己を考察する事は「自己を知ること」につながるのだけれど、最後の結論で、「ヌルゲーじゃないハードなゲームをこなせる自分は凄い」という感覚が感じられ、優越感という感覚そのものを、メタ視点でもって論じる際に持ち込んでしまう事で、自分を相対化した視点が逆に自分を定義してしまって、自分から自分で優越感という檻にほいほいと入ってしまうメタ視点の罠がある。でもきっと、いつかはこんな感覚であっても気付くときがくるだろうし――気付かない場合でも、そのままでいるのなら、そのままになってしまうんだろう。
このゲームの話も、何かの元ネタがあってそれになぞらえていったのならこの記事自体はあまり問題では無い気がするけれど――優越感と自己差別化の道具としてメタ視点を持ち込む事は、ともすればそれを用いつつ他人を傷つけても構わないと思ってしまえるほどに危険を伴うものなので、それを承知で取り扱いには十分注意したい。