「排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異」

排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異

排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異

  • 作者: ジョックヤング,Jock Young,青木秀男,伊藤泰郎,岸政彦,村澤真保呂
  • 出版社/メーカー: 洛北出版
  • 発売日: 2007/03
  • メディア: 単行本
  • 購入: 4人 クリック: 56回
  • この商品を含むブログ (52件) を見る
コミュニティとコミュニティがけなしあい、差異化し、さらに分断された個々のコミュニティ内部で形成される意思決定したコミュニティが更に差異化される仕組みが、都市の「無理解」「無関心」とつながって差別と化していく仕組み。さらには、個人の行為が個人だけの意思決定となされ、自己責任に還元される仕組み。さらに、いじめ、野宿者襲撃、訴訟、医療崩壊、家庭崩壊、少子高齢化、都市の地方を見捨てる仕組み、ひきこもりやフリーターが単なる怠惰となる仕組み、シングルマザー、タバコと健康、障害(メンタル、ボディ)へのまなざしと治療しなければならないという強迫観念、異質な人間への同化と差異化を繰り返す過食嘔吐現象。
過食はもう終わった。あとは嘔吐――差異の排除――だけを極端に繰り返すだけの段階である。これら一連の現象は、嘔吐段階が最終まできていることを示している。表象して見えている部分は根本から生え出しやっと見え出した「葉」の部分に過ぎず、それらは同根である。この本では、同根の先のほうを明晰に示唆している。

私たちは、用心深く、計算高く、世辞に長け、保険統計的な態度をとるようになった。そして、困難な問題を回避し、異質な人々と距離をとり、みずからの安全や平穏が脅かされない限りで他人を受け入れる、という態度をとるようになった。しかし、このように判断を留保する態度が一般化するとともに、これとは矛盾する態度が現れた。物質的に不安定で存在論的に不安な状況が、人々の間に不安感情を他人に投影するという態度を生み出し、道徳主義を広める条件になっているのである。社会のいたるところで、人々の間に非難と応酬が飛び交うようになった。シングルマザーやアンダークラス、黒人や放浪する若者、麻薬常習者、クラック常習者などの、コミュニティで弱い立場にある人々が、針で突き回され、非難を浴びせられ、悪魔のように忌み嫌われるようになった。このような新たな排除の世界にあって、本当に革新的な政治を行なおうと思えば、私たちを物質的な不安定と存在論的な不安の状態においている根本原因、すなわち正義とコミュニティという基本問題を避けて通る事はできない。これまでならば、政治的には、1950年代や60年代のような包摂型の世界へのノスタルジーに耽ることで、議論を収めることもできた。しかし事態は、もはや後戻りできないところまで来ている。私たちは、もろもろの機会を目前にして、恐怖を取り除くのではなく、恐怖を受け入れるという姿勢で臨まざるを得なくなった。

排除型社会 後期近代における犯罪・雇用・差異 13P

この序論だけでも、今どういった状況なのかよく理解できる。それはまさに、今私や私達が現実のものとして感じ取っている事だからだ。感じ取ることができない場合も、感じないように、恐怖を取り払う為に、差異と烙印を押された人々を差別化するようになった。そうして、感じ取ることができる場合も、できない場合も、それぞれが忌み嫌い合い、理解しあうこともない状態となった。
この問題の深刻な所は、「包摂された社会」へのノスタルジーと幻想、それに還元しようとする動きが更に問題を深刻化させている点である。包摂的な思想や意識を追い求める強迫観念によって、差異化されていった人々は相対的剥奪感(本来ならば平等に分け与えられるべきであったモノが、何者かによって剥奪されたという感覚)を絶えず感じるようになり、「何故あいつがあんないい目ばかり――」と謂れの無い憎悪を募らせる。このノスタルジーが硬直化した社会をつくりだしているということは今も自明の人が多いのだろうけれど、無意識に包摂され当然といった意識を植え付けられていることもあるから、昔ながらの定義や常識を当り前の前提としていないか、何度でも自分の思考の隅々まで再考したほうがいいと思う。
これは、ポジティブな思考をただ称揚するだけでは解決しない問題であることは、これら事態を肌で感じ取っているものならばすぐさまわかることだろう。著者はそれを暗黒世界<ディストピア>と呼んでいる。
いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――は、日本で起こっているいじめ問題から現代社会の心理的側面から社会へと敷衍している問題を示唆し、その解決策をいくつか示しているが、これには明確な(最後の章で道筋を示してはいる)解決策こそないものの、様々な側面からの問題提起として同じ問題、根の先へと向かって論じているのが印象的だった。
様々な社会的な問題を提起するとき、この暗黒世界<ディストピア>の世界を絶えず見詰めることからはじめることなくして、問題を論じた事にはならない。いつものように水の表面をただなぞるだけでは、問題は見えても来ないし解決も出来ない。

デヴィッド・マッツァが述べるように、ひとつは都市の現象を正しく認識することであり、もうひとつは、同時に都市生活にはびこる悲哀<ペーソス>を知覚することである。マッツァは彼自身の「自然主義的」な哲学にもとづいて、研究者が研究する現象にたいして「誠実」であるようにと、次のことを要求している。すなわち、一方では都市生活へのロマンティックな幻想を捨てさることであり、他方では<解体>という無意味なカテゴリーに都市を投げ込まないことである。要するに、研究者は差異に耽溺してはならないし、差異を単なる逸脱として片付けてもならない、ということである。

排除型社会 後期近代における犯罪・雇用・差異 433P

最後の章で、この世界にどう対抗するか、ということが述べられている。
今も新しい造語が生み出されては定義され、脱構築されながら差異と正常の境目を定義しあい、それにそぐわない人は”修正しなければ”というインプットされた観念に向かうよう真剣に悩み、対象に投影された終わることのない憎悪を生み出してしまっている現実がある。それは様々なレベルで発生しているが、固着した概念を拭い去る事も、他者に植え付けられてしまった劣等感を拭い去る事も、この承認が、受け入れられても絶えず叩き潰される中では、非常に困難となっている。
問題提起がそれぞれの章でなされているものの、具体的な提言や対策は示されていない。けれど、自分の状態を自覚、認識すらしていない人々が多い中で、こういった明晰な提言事態、非常に重要なものだと思う。