福祉倫理の論理的論考

リンクが抜けているかもしれないけれど、拝見しているブログでの、「姨捨山」に関するそれぞれの議論、それぞれの考え方を見ていて私なりに色々考えた。頭の中でまとめようとして、私なりに整理するために図を描いてみた。

「do (する)」と「can (できる)」は違う、ということを「できる」と「できない」は対立しない。 - sugitasyunsukeの日記で述べられているのだと思った。これは確かに、質問するときに、質問者もナイーブになる点だと思う。
私は時折、「できる (can)」のか「できない (can't)」のか、わからなくなるときがある。それでも、「できる (can) ならする (do) んだよね」という意図で問われる事がよくある。その時思うのは、「できる (can)」なら必ず実行しなくてはならないのだろうか、ということだった。「できる (can)」のか「できない (can't)」のかもわからない、そんな状態の時、「できる (can) → 実行する (do)」という混同した意図で問われると「実行しなくてはいけないのだろう(must)」だと考え込んでしまう。なぜかと言うと、「できる (can)」のか「できない (can't)」のかわからない、どちらも選べないとき、「できるんだよね」という言葉が重圧に変わり、「できても (can)できなくても (can't)、しなくてはならないこと (must)なのだ」という否定できない重要性へと変化してしまう。これは多分、「期待にできるだけこたえたい」し「なんとかしたい」という欲求があるからこそ、芽生える「するべきだ、しなければならない (must)」の感情だろう。
図には「環境的素地」とあるけれど、そこには「する (do)」と「しない (don't)」がある。するか、しないか、という二者択一を、自分の選択次第でどうにかできるという範囲だ。これが、「損得」という推測で推し量ることのできる範囲内であると私は考える。その環境的素地の基礎がない、と当事者が考えている場合「できない (can't)」ものと判断されることになる。けれど、質問者は「しない (don't)」と「できない (can't)」層の両方へと同時に問いかける事ができる。「行為 (do)」しているかどうなのか、ということのみに焦点を当てた場合、必然的に、質問は二者に訊ねられる事となる。その時、「できない (can't)」と思っている人にとって、この言葉は「できる (can)」のか「できない (can't)」のかもわからない、そんな状態へと陥らせる言葉へと変化する(最初の例のように)。
① と ② 、冷静に考えれば二つの選択肢が存在するにもかかわらず、「できないかもしれない(may can't play)」から「しない (don't)」選択肢 ① を「しなければならない(must)」という感情に打ち消される。「できる (can)のにしない (don't)」のだという言葉や、「期待」「したほうがいい」「しなくてはいけないよ」という逃げ場の無い圧力と共に促され、当事者は「できない (can't)」けれど「する (do)」というような、① と ② の過程の順番を唐突に飛ばしまう。周囲の状況を確かめる余裕もないまま、建設的な行為や安定感を喪失する。それにより、「できない (can't)」「できる (can)」という振り子のような気分を行ったりきたりしながら「労力」の分散を図り間違え、「労力」による疲労や圧迫感を伝えることもできず、常に周囲からの圧迫感を感じ、継続して行なわなければならない (must)労力によって、更に疲弊する。
損得なのか、できるのかできないのか――といった思考は当事者の主観で判断すべきことであって、外側から「こうなんだろう」と決定できるものではないし、すべきでもない。「できるのに、しない」という質問を問うことは、結果的に見て、建設的な思考や環境を整える為の余地を失わせる恐れが高いからだ。それでも言わなければならない場合、質問者はその「環境的素地」を明確に見極める義務があるんじゃないかと思う。
もう一つ方法がある。③ へと飛ばすのではなく、① と ② へと段階的に進める問い方だ。

質問者 当事者 対応
「できるかな」 「できないかもしれない」 「環境的素地」を確かめる
「どうだろう」 「環境的素地」を確かめ、その後再度質問
「できるかもしれない」 「する」ことの意志を確認する。「しない」という場合はその理由は何かを尋ねる。「環境的素地」が原因か、「損得」が根にあるかはここで確認。
という、問い方を変えるだけで、当事者の圧迫感は減るような気もする。
人間は単なる主観的動物ではない。環境因子と主観を常に擦り合わせながら、自分が相応しい行動をとれるように、常に試行錯誤しているものだ。「できない」という人がいるのならば、そこには「損得」を越えた「苦痛」が根底にあって、それら苦痛を振り払う事に試行錯誤している最中なのだ。そして、その試行錯誤の中に「全てが終わるまでの絶え間ない努力」「福祉施設」「姨捨山」という選択肢が、目の前にただ存在している。
その中のどれを選ぶのか、といった選択によって当事者にどのような評価が与えられるのか。それはまた、別の話――「責任論」というものに集約されるものなのかもしれない。それでも私は、「責任」なんて「非常に限られた、窮屈な選択肢」での中で果たして背負わされなければならないことなのだろうか、と考えるのだ。誰が誰に「責任」を負うのか、負わせるのか? 何故背負うのか、背負わなければならないのか? 誰に? ――何に?
私は「問われる側」だろうから、「問われる側」の立場に立ちすぎているんだろう。