帰属意識/コミュ

2007-04-08 - setofuumi製作所 - オレ理論
例えば、ある場所にコミュニティというものが「表札(私はこういった者ですよ、とかこういったカテゴリですよ、という)」に掲げられていた場合、それを見た人はまず、「カテゴリの中にいる人」という風に見る可能性がある。カテゴリを排除した人そのものではなくて、やはり、こういった性質を持つ人である、という共通前提を持った状態からスタートする。そして、それは人≠カテゴリという風に”逆にもなる”場合があるのだと思う。
そういった考えを止める、ということは人類が連綿と続いても未だになくならない差別感情や差別心に繋がることを徹底的に止めるような一大事業になってしまうし、それに「わたしはこういったカテゴリです」ということを言うメリットもそれなりにある。言う事によって、他者から適度なアプローチが受けられたり、過度な負担になっていたものを軽減するよう、理解しやすくする事もできる。それから、同じコミュニティだからこそ、理解が進みやすく独自の解決方法や突飛な発想を受け入れられやすいし、内部コミュニティの感情も豊かになる。
私はカテゴリは「属するもの」じゃなくて「自分の中にあるもの」として認識すべきだと考えているのだけれど、それでも「帰属意識」を持ったコミュニティとして引力を持ってしまう事もあるし、「帰属意識」がなくても他者からカテゴリに押し込められてしまうこともある。だから、そういった危惧を避けるために「言わないほうがいいのか、言明しないほうがいいのか」というと、メリットを自分で背負う事になり、十分な環境と覚悟が必要になってくるから、今の社会の意識では難しくなってくる。
しかも「社会的な文脈で強い人々」は「言う」「言わない」ことにはあまり頓着することもないけれど、「社会的な文脈で弱い人々」だと誤解や理解を得られないということもあってか、言明する場合は「帰属意識」が強くなければ無自覚な発言・無理解によって伝えようとする気力を奪われ個人は折れてしまうし、言明しない場合はとことん何もいえないという状況になってしまう。何とか周囲に働きかけようとしても、周囲の無理解さに端を欲した帰属意識はますます固まり、それが募ると、理解を求めようとする姿勢を逆転させ憎しみを募らせる結果になってしまう。
こういった周囲の環境次第で、あたかも「自分自身がなにもせず固まっているから何もできないのではないか」と思われるような構図が出来上がってしまう。そしてまた、その構図でますます……という悪循環(スパイラル)。そのつもりはないのに、いつの間に何でそうなってしまったのか? と思ってしまうのは、多分こういった状況からくるものもあるのではないか、と考える。
なんだか、話の前提が長くなってしまったけれど、私はそういった意識を取り払いたいと思ってる。こういった状況が事実だからといって、そのままだと辛いのは「カテゴリ」を名乗っている人そのものに他ならないのだから。
最初に話したように「明言する」ことと「明言しない事」のどちらにしても、誤解や偏見を生み出すことになってしまう(言う事自体は悪くない筈なのに、状況や社会文脈的にそうなってしまう)。本来なら、「見る側」が「カテゴリとこの人の人間性はまた別だし、私はこの人と似ているけれど似ている以上の意味はない」という意識を持ち続ければいいなあ、と思っているけれど、全員にそれを期待する、ということもできない。だから、予め「私は○○のカテゴリではありますが、私はこういった人間で、○○にも色んな人がいます。見ているあなたも○○だと思うかもしれませんが、あなたはその色々な人間のなかの一人です」と言うしかないのかなあ、と思う次第。
そういったものがめんどくさい私は「主語」を文頭につけて「私は」わたしはわたしは、って直訳英語様の文章にしています。
酸っぱい葡萄愛好家 - ARTIFACT@ハテナ系
こちらの記事に書かれている「酸っぱい葡萄」の話は、多分帰属意識を持って対抗するしかない人々が、理解を得られない苦痛を理解して欲しい、というお願いや懇願に近いものなのだ、と私は思ってる。だから、もしそういった人々が「おまえは酸っぱい!」って叫んだとしても、私はその得られない理解を理解しようと努力したいな、と思う。「弱いもの同士」が固まって更に弱いものを叩く、という構図が蔓延していたとしても、そういった人達は誰よりも、周囲の理解を求めている人達だ。それを、怖くても突き放してはいけないとも思っているし、理解を示す事ができれば良い味方になってくれる人達だとも思う。憎しみレベルにまで移行してしまっていると、更に難しいのだけれど。
って、私のエントリはいつも批判や言及にはなっていない気がする。自分の考えをまとめただけのような。トラックバックを打つのに躊躇するけれど、一応。