感情の増幅反撥、その受容

閉じられようとしているサイトを見て、なんだかとても悲しくなった。閉じてしまう、ということがではなくて、閉じるのをやめて欲しい、ということではなくて、「とても深い心の傷を負ったままやめてしまう」ということがとても悲しい。
何にしても言葉に対して敏感で傷つきやすい人はいて、もしかしたら私の文章を読んでいる人が、人知れず綴られた言葉や単語によって傷つけられているのかもしれない。私は、そう考えながらも自我を主張している。ゼロかフルではなくフィフティフィフティで存在していると考えよう。見せること、自分を切り刻むことに対して誰かも切り刻んでいるかもしれない事について、私はどうすればいいのかを考える。
例えば、様々な「作法」が語られ、私も時折そういった文章を読んでは「そういった考え方もあったんだな」と思う。けれど、自分の感性にあるものの主張する言葉の使い方と作法は必ずしも一致しない。
かもしれない、かもしれない、と考えて、やはり傷つけない方法はないのだと悟る。けれど、それに気付くことも出来るはずで、だからこそ「傷つけてもしかたがない」はずがない。それは、自分の罪を自分で背負わずに誰かに背負わせる事と一緒であり、精神の怠惰と停滞に他ならない。
私自身の事にとって自明でない事を顕にし、「他者に見せる」という前提の下とある場所で書いていく事によって、「誰かに利用される」こともあれば、不可抗力にせよそうでないにせよ「誰かを利用してしまう」こともある。それは事実だ。「誰かを利用している」ことが己にあるならば、即座に己を反省する必要があるが、そのつもりがない場合でも、結局のところ同じ結果に辿り着く。
誰かに利用してもらえればそれでいい、と考えているが、それは、「利用した誰かはきっと私の思考を理解してくれているのだろう」という希望的観測が少なからず心の底に存在するからだ。それは少数でも、ゼロでも構わない。見せることが自己開示であり、己の腸を突き破り差し出すことであり、毒にも薬にもなる――しかもそれは常にフィフティフィフティの間を彷徨うというリスクの高い賭けだ。連帯感、という感情を持てない人間のたった一人の綱渡りだ。こけるのか、こけないのかも分からない中で、暗闇の中で誰かを突き落としてしまっているかもしれない中で、私は多分、苦しみながら書いていくのだろう。それはリアルでの私の「人生」とも同じ延長線上に繋がっている。
私は最低限でも、誰かを慮りたい。見ている人の苦痛を理解したい。それが出来なくても、「行為」として表象しなくても、いつもそう考え、そうならないことに、常に苦悩し続けている。
最初に話は戻るが、「とても深い心の傷を負ったままやめてしまう」という人のことを話そう。
「誰かに自分の嫌な部分を指摘されたこと」でやめるひとは「いない」と私は思う。何故なら、それは反証可能だからだ。指摘するされる側というのは、その指摘に感情が混入している場合に限り鏡像関係であり、互いに反撥しあう。感情の対立に磨耗し、諦念、もしくは憤怒を抱く事はあっても、心の傷にはなりえない。
やめてしまうとき、というのはきっと「誰かを傷つけてしまっていた自分」に気付き自分に烙印を押してしまう事であり、複数の誰か(という可能性の分岐)が、全て自分へと一気に押し戻されるような苦痛が流れ込む事によって、自己が押し潰されてしまうからだ。それに耐え切れない。耐え切れない、という脆弱さがその人にあるわけではない。耐え切れないほど、誰かの痛みに敏感な人が、「誰かを傷つけてしまっていた」ことに耐え切れず「やめてしまうこと」そのものが、私は悲しい。
そうなってしまった結果に悲しみを覚えるのは、私自身、それらが分岐可能な位置にあるからであり、いずれ、私が背負うものなのだろうということを思い知らされるからだ。それらを発生しないようにする、ということはできないし、無視もできない。かといって、そうであるかもしれない誰かの状態がどういったものなのかもわからないのだから、わからないまま感情という「膨大な情報」を鵜呑みにしてしまうのだ。だから、「言葉や他人の増幅された感情そのものを丸ごと受けてしまう人間が、それらを受け止め、どう自分に合った形に還元して吸収できるか」ということを考える事が今後の課題だ。*1
そういった人には、敏感さを持ち得ない人々の方法論は適用されにくい。もしここで良い方法を見つけることができれば、そういった人達に、方法論を利用して欲しい、とも切に思う。
即座に受け止める、ということは難しいが、時間をかけてひとつずつ出来る事もあるのだと思う。

*1:感覚過敏や統合失調症などは、同調圧力――「多数存在しそれら全てが自分に向かってくる」かのような感覚をもたらす環境や文化で発症しやすいのではないか、という可能性も考えている。そういった社会的文脈から逃れるのではなくて、受け入れ方を変えなければならない(文化の差異からの非受容を容認する事無く)。