戦争と実存、自由の欺瞞的楽園

実際、ぼくが赤木氏の文章から最大の危うさを感じたのは「希望は戦争」というところではなかった。高度成長期世代へのむきだしの憎悪でもない。東北地方の零細な仕立て屋の老人(奥さんはアルツハイマーで長期入院中で、医療費の支払いで年金の多くが消えてしまう)に向けられた「あなたはそれでも恵まれている」という感覚こそが危ういと感じたのだ。経済格差の水準を通過した上で、赤木氏の「希望」する「戦争」の問題を深い水準でもう一度問い直した方がいいんじゃないか。他人を批判するためじゃない。自分の「自由」について深く考えるために。

続き、少し。 - sugitasyunsukeの日記

私もここに酷い心臓の痛みを感じた。私が心臓の痛みを感じるときは常に「理解の深い断絶、絶望」を感じるときで、それが”ある”ことを知らせるセンサーのようなものなのだ(過去の経験からそういったものに敏感になっている)。今までどこだろう? と思っていたのだけれど棘が抜けたかんじがする。
だから、その「隔たり」はなんなのだろう――彼が感じている痛みと苦痛はどんなものかと考えた。そうして、その言葉が出てくる繋がりはどんなものなのだろう、と考えた。
そこから出てくる言葉は、絶望の中のほんの一筋の希望を積む事しか私には出来なかった。すなわち、長い年月をかけること、その先に死んでしまうとしても、ここに「居る」自分は、居るだけでは終わらない存在なのだということ、思考と言葉こそが人間の行為を変えていくものだけれど、それでもゆっくりとでしか世界は変わらない、ということだった。

ただ、そうして出てきた結論(いろいろ今まで交わされてきた言葉も含めて)は、現実に彼が救われるような結論じゃない。立ち上がっても報われない運動かもしれない、だが立ち上がっても立ち上がらなくても、最後には報われない運動かもしれないし、むしろ、現代社会の確固とした倫理的基盤を作り上げてきた情勢を見れば、そうなることは確実といえる。だから、立ち上がろうが立ち上がらなかろうが、「今、ここにいる自分」の不幸は掬い上げられる事は無い。立ち上がればある意味では「幸福」にはなるかもしれない。立ち上がりながらも運動していく中で、社会の歪みを目前にして絆が出来る可能性も少なからずある。けれど、その時ふと我に変えるかもしれない。
「救われなかった自分」はどこに行くのか?
今、救われていない、誰も手を差し伸べることの無い「実存している自分」が「救われた」という「事実」、それが欲しいのだ。
「立ち上がれ、そうすれば救おう」
「じゃあ、何故あなたは”今、ここ”で”今、悲しんでいる人間”である私を救ってはくれないのですか」
「立ち上がれ」、と安易(安易ではなくとも、絶望している人間に掛けられる言葉はことごとく安易になる)に掛ける、かけられることが許される社会。そういった言説がのうのうと振りまかれる社会こそ、「誰も私を救ってはくれない」のだ。
だから、「今救われたい」「じゃあ救いましょう」という社会――意識が存在する対象である「老人」というカテゴリーに属した人間は「救う―救われる」というタイムラグの差において比較的報われる可能性が高い。「尊厳死」という、そういった言葉で様々に議論を戦わせ、人間の尊厳が「ある」という前提で議論が交わされている事で「あなたはそれでも恵まれている」と思う。
若者はどうか。「まだまだ頑張れるだろ」という前提の下で議論が戦わされる。その結果「やっぱりセーフティネットが足りない」「教育が足りない」と議論が交わされる。
その、前提となる格差こそが「世代格差」であり、「ここまでは頑張れる」「ここまでは頑張れない」という差が年齢やカテゴリー、他者との比較によって画一化され、「できないものはできない」ことを自己に還元され二重に”今の自分”を蹂躙される。
その、議論自体のあまりの無意識な「最初からあるもの」と「ないもの、もてなかったもの」の差に、助けて貰えるはずだった人間こそ、また”今の自分”を搾取する側だったのだと、ささやかな希望(頼りともいう)はただちに憎悪へと転化される。
私は最後のような憎悪は持っていない、もてないというべきか(そういった脳の機能がたぶん壊れているだけだ)。けれど、そういった状況をいつまでもいつまでも再生産し、誰かを蹂躙する事にあまりにも無関心すぎる世界を憎んではいる。
私は「それでもあなたは恵まれている」という、感覚こそ手をふりほどくまでの絶対的な絶望であると感じている。
「どうせ、誰もわからないのだろうな、この苦痛を、悲しみを。ほら、やっぱりわかってない。いつまでも同じ事の繰り返しで、”がんばらせるためにはどうしたらいいか”ばっかりを言う。何を言っているのか。頑張ったとしても何が生まれるのか。全て”生産物”と”消費物”に精一杯の頑張りは還元されて、そこに”今の実存”や自分は存在しないも同義だろう。そうやって生きていても”あなたの生きる意味を!”という下らないことばかりを喋ってはやしたてて、じゃあなんだ、意味があるのなら”意味が無い”とされる世界の在り方はなんなんだ。それなら、戦争でも、誰かが目の前で不幸にでもなってくれたほうがよっぽど”意味”が見出せる。”生きる意味を”という個人に全てを還元する意識を植え付けたのはあなた方だ。なら、壊れたほうが意味があるだろう?」
赤木氏はきっと頭がいい。実存と行為=結果が等価とされ交換されるものなのならば、実存の為に行為=結果を生み出すために、まずは手始めに壊すしかないと考える。何故なら、今は頑強に出来た鉄壁のような「張り巡らされ行き届いた綺麗な世界」があって、「実存」が感じられないからだ。それでも”意味がある”といつまでも欺瞞を前提に言い続ける。うんざりだ、と。誰もが無視している事実を、こうして尊厳を踏み躙られている人間がここにいることをみせつけて、脅してやらなければ気がすまないのだ、と。そして、誰もがそれを隠しながら生きている。あなたたちが欺瞞で覆い隠そうと、目を逸らそうとあなたたちも”今自分に意味がある”と騙し騙し何かをしながら、生きて居るんだろう? だから”自分にはまだ生きる意味があるから”と言って顔を背けて蹂躙する事を正当化しているのだろう? と。全ての言葉が欺瞞に聞こえてしまうほど、言説に敏感なのだ。
そして、それは、今生きてそれらを敏感に感じられない人にとっても感じられている事で、それらを――敏感に感じざるを得ない人々の代弁をしているに等しい。その、明らかな社会《世界》への憎悪に対して「生きて」「がんばれ」ということで「我々は違うからね」と一歩引いた見方で遠巻きに言説を述べている人々に宣告している。
「私はあなたがたが私のような人間と、いつまでも違う、などと真摯であろうがなかろうが、いい続けるつもりならば、その安全圏を壊す事で見せ付けてやる。私とあなたは同じ存在だ」
私は、戦争だとか、苦しみが再生産されることとか、誰もそんなことは望んでいないと思う。だから、戦争、という言葉が出たとき「戦争? 今の民主主義が戦前より平和なのになにを変な事を」という言葉はやっぱりズレている、望んでいないのだから。「あなたより苦しい人もいっぱいいる、だからがんばろう」これも……違う。同じことだ。だって、それは頑張りを個人に要求する事に他ならず、個体へと即座に無意識から発する重圧がかけられる。
「頑張るとか、頑張らないとかそんなことは関係ない。そうでなくても、私は一緒に生きたい」
なんで、こんな根源的な、自明の事を忘れていたのか。実存は、生命の存続では覆い隠すことはできないのだ。

……行為を信じ、観照あるいは観察を信じない理由は、ますます説得力をもつようになった。存在と現象が袂を分かち、真理がもはや眺める人の精神の眼に姿を現わし、自らを明らかにし、暴露するとは考えられなくなった後に、はじめて、偽りの現象の背後にある心理を追求する本当の必要が起こってきた。実際、受動的な観察や単なる観照くらい、知識を得、真理に近付くのに信用の置けないものは無かった。確信を持つためには確実にしなければならず、知るためには行わなければならなかった。
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労働というのは、私たちが住むこととなったこの世界で私たちが行なっているもの、あるいは行なっていると考えているものを表現するには、崇高すぎる、野心的にすぎる言葉である。労働社会の最終段階である賃仕事人の社会は、そのメンバーに純粋に自動的な機能の働きを要求する。それはあたかも、個体の生命が本当に主の総合的な生命過程の中に浸されたかのようであり、個体が自分から積極的に決定しなければならないのは、ただその個別性――まだ個体として感じる生きる事の苦痛や困難――をいわば放棄するということだけであり、行動《ビヘイヴィア》の幻惑され「鎮静された」機能的タイプに黙従する事だけであるかのようである。
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……しかし、社会学や心理学や人類学が「社会的動物」についてなにを語ろうとも、人間は作ること、製作すること、建設することに固執している。
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活動的であることの経験だけが、また純粋な活動力の尺度だけが<活動的生活>内部の様々な活動力に用いられるとするならば、思考は当然それらの活動力よりもすぐれているであろう。この点でなんらかの経験をしている人なら、カトーの次のような言葉がいかにただしかったか判るであろう。「なにもしないときこそ最も活動的であり、独りだけでいるときこそ、最も独りでない」。

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