前を向いて歩けば、足元には何がある?

「向いている生き方」と「向かない生き方」をそれぞれ模索してつきつめて条件が合致することを目指して試行錯誤することがベスト。
ということなんだなと解釈した。否定の否定は哲学的論考や生存する理由などを考える必要は無いという読みかたになってしまうけれども、きっと梅田氏は「敢えてそういった視点を若い人は排除して前だけ見ておけ」ってことを言いたいのだろう、と思う。
私もこういった生き方がある、ということは知っていたし、そういうやり方を選んでみたい、とも考えたし、今も考えながら居る。
けれども、どうしてもブレーキが思考の端で勝手に掛かる。「私は、ただここに生きる事と好きであることだけみていてもいいのかな? そうしている間に困っている人が、悲しんでいる人が、苦しんでいる人がいて、そう考えると息が詰まってしまう」って考えて「楽しく生きる」ことがたまらなく苦痛に感じて、泣きそうになる。私は楽観主義、刹那主義であるから、せめて「幸せにならず、誰も不幸せにしない楽観視できる方法」を探している。
したたかに「好きを貫く」為には「幸せになっても構わないし、幸せを享受する資格がある」という根源的欲求や承認が土台として存在し、「自分の行為によって誰かが蹴落とされる可能性は視野外」という自己保存本能が重要になってくる。そして私にはそれが極端に欠けている。
自分が好きに生きて、お金を儲け、楽しんでいる端で、今にも独りで死にそうで、苦しそうにしている人間が居る。その段差の高さ、視野の狭窄、お互いの完全な無理解とズレ。そう想像したときの余りの落差を感じて、そこに過去の自分を見る。段差の向こう側に対して何の力も行使できず呆然と涙だけが流れて、その涙すら悪とされた事実を見てしまう。*1
だから梅田氏の提唱する生き方は面白いし、寧ろそうなれば「大多数」は希望に溢れた生きやすい社会になるだろう、という気はする。ただ、そういった周囲を見ない生き方が私には適用されない、という一点に尽きるだけなのだ。
「無視して前を見ればいつかなくなるよ」
そうあればいいのだけれど、そうはいかないから、ネガティブだと判断する層もされる層もなくならない。「ネガティブ」だと判断される層は無視してもなくならないし、また、事実としてあるのだから。

*1:フィードバックするように何回もフィルムが回される。8年間くらいずっとこんな調子だけれど、忘れてはいけない、という気がして、自分自身で条件付けされたラットのように映写機を回している。