空気と気持ち、言葉と穿ち

色々な考え方を見て、「好きなことをやれ」「正のエネルギー」の言葉のことを考えさせられた。
このメッセージを「共感」して受け取れる人は、きっと元々「好きなこと」があって「正のエネルギー」のポテンシャルが高い人なのだろうと思える。梅田氏が今どういった状況で、どういった気持ちでこれら一連の言葉を話しているのか、というのは受け手の採り方次第でもあるけれど、こういった言葉は発信した側の意図がどうあれ読まれるのだろう。同意と否定が混在しながら、それでも、その「同意」の中身はきっとそれぞれ個人固有のものなのだろう。
共感する側も、言葉を受け取る側も、どちらも発信源からの、塊の情報を受け取るけれど、その塊がどんな形であるのかは、受け取った側に帰属する。書物の言葉は、執筆した意図に関わらず、受け取ったものだけがその言葉から世界を構築する。発信者が発信した情報も、本と同じように、ダイレクトに受け手の中に受け手に変形して代入される。正統な指摘や、新たな知見を見出している文章を見て、ある人は「ギスギスしている」と知覚することもあれば、ある人は「新しい視野が開けた」と知覚することもある。
ポジティブ・ネガティブといった言葉そのものが、「感情」と「手段」を混同する言葉になってしまっている。それが「そうできないものは理解する必要は無い」という姿勢を暗に示してしまっていることだけは気付いて欲しい。