カラショック

この感覚は今まで言葉に出来なかったけれど、うまく説明できていればとても嬉しい。
「何がやりたいの?」と「内面の意志(のようなもの)」を意志確認の文脈で指摘された時、全てが空白になるような感覚で自覚させられた経験がある。だからfuuuuuuunさんの言っている感覚は染み渡るように実感している。きっとそういった「統一された意思はないのか」「何がしたいのか分からない」のような言葉で言われると「カラ」を自覚「させられてしまう」のだと思っている。fuuuuuuunさんの感覚と同一かどうかは分からないけれど、私の場合は、「一瞬」にしてデータで固められた意志が四散する感覚だ。外面は取り繕う事も可能なのだけれど(着ぐるみ重装備で)、そういった言葉で「全てが偽物だ」と責められているようで実のところ辛い(被害妄想ではないが勝手な被害感情だという自覚はある程度に)。言葉が私の内面をばらばらにしていることには気付いていないんだろう。ともすれば、単なる疑問だったりもするだろう。それでもあの「一瞬」を味わうのが、「わからない」という事実を味わうよりもよりも非常にきついというのが実感としてあって、そういったものが理解されにくい事も事実だ。だから「自分の本質はカラ」、「意志なんて何も無い」、「したいことってなんだ?」と自分自身、その時点での「感情」の空白部分を責めてしまいやすいし、四散した後それを取り戻すのにも精神的な労力が必要で、今度はそうならないように、そうならないように――とまた塀を高くしていく(カラが着ぐるみを着る)。一般的にこういった感覚を感じる機会がある人は少ないだろうから、こんな些細な言葉に痛みを感じるという事実を共有する事はまず難しいと思う。

「適応の困難さ」のニュアンスが違うときに「違う」と感じる事がある。いくつかあてはまる人はいるし、なんとなく「そういった一連の行動」はあてはまるひとも多いのかもしれない。けれど感覚そのものが違うんじゃないか、と思うような感じられ方であることも多いから、まるで平行世界のように、互いの対立時間軸は変わらないのに違う世界を生きているかのように、どこかがちょっとずつズレてる。その「ズレ具合」を説明するのが、これまた困難なのだ。だから、自分自身でなんとか言葉を一生懸命ひねり出して、あれでもか、これでもか、これがだめなら抽象化、これでもだめならプロセス、メカニズムだ、これでもだめなら――とするのだが、やっぱり伝わらない。
結局そうやって言葉を搾り出しても誤解が誤解を生むだけで、ズレはズレであって、全然理解しあえないのはわかってるけれど、とりあえず言葉を尽くして説明いって、それで周囲がどんな解釈をしてもそれはそれで仕方のないことだということ(もちろん訂正すべきところは訂正して)と、自分自身の「自己表現」や「表出」であるとして、納得すればそれでいいや、と思っている。