欺瞞のCANと、DOの承認

福祉倫理の論理的論考 - Double Lineでは、「環境」の不足によって行動の責任の圧迫感を感じるか、という視点に立って考えてみた。けれどよく考えてみれば、「持っていない、だからできない」という人はやはり少ないのだろうか、と考えて、もういちど考える事にしてみた。
実際に「できない」人に問うことはどうなのか、問うことが「できない」人に対しての重圧になっているということが前回話したことで、そうした人には「自由な選択肢」が非常に限られている中で責任を問うことは酷である、という考えだった。けれど、「物理的に可能であるはずなのにできないのは何故なのか」といった根本的なものを受け入れようとしていないその姿勢を示唆しているのが「できるのに、何故しないのか」という問いであると思う。「できる」人と「できない」人を確認することは重要だと思うけれど、問題は、物理的に可能である人の場合、「何故、本人の中 で”可能性”が”不可能性”へと変化してしまうのか」というあたりにある気がする。
「実際に不可能で自由が無い」のに責められる、だから欺瞞で防御するしかない、と感じる思考が存在すること自体は事実だが、実際に「環境」が不足しているという人はごくごく少数で、「持っていない、だからできない」と言ってしまう大多数は「環境」が不足していると思い込んでいるに過ぎないのか? あるいは、思い込まされているのか。
「持っている、けれどしない」を、「持っていない、だからできない」に変換させているにも関わらず、本人はその欺瞞性に気付かず、外からみれば「明らかな欺瞞」に見えてしまう。
以下の文章は、「環境」を整える事が可能で、かつ「できない」と言ってしまう人の心に立って、その場面を推測した文章。


個人の力は「すべき」こと「しなければならないこと」に対して「しない」ことが往々としてある。
仕事をしなさい、と言われても、時間に迫られ、体力を削られ、やっと動いている状態なのかもしれない。その中で、やればできるはずだ、と問う人がいる。そして、できるかもしれない、と思う。体力に自信のあった人もいずれ脱落していくかもしれない中で、期待にできるなら応えたいと思う。だがそれでも――と立ち止まるときがふとある。これが終わるのは、いったい「いつ」なのか。「終わった」後に残るのは、今まで親しんできた人との別れと、親しんできた人に対する努力が「死」というかたちで徒労に終わってしまう事だ。その苦痛を背負った自分に対して、「褒めてくれる」人など誰もいない。褒めてくれるはずの人は、死んでしまう。「わたし、努力したよね」と言って、周囲の人は「頑張った」と言ってはくれるだろう。それでも、本当に欲しい人からの言葉――費やした人からの言葉はかけられることはない。その可能性が高い。その時、自分は苦しい以上の絶望を味わうかもしれない。それが、怖い。
「できるのに、何故しないのか」
そうだ、できるはずだ。何故できないと言い張ってしまうのだろう。余裕がないのなら、時間を削ればいい。お金を費やすことも、今の自分にはできる。今までためてきた貯金もある。仕事が時間の邪魔をするのなら休暇をとればいい。今までたくさんの時間を過ごしてきた家族で、これからもきっとそうだ。いつまでも一緒にいることが、望みだし、そうすることが正しいこともわかっている。
それでもしたくない。全てが「無駄」になる。徒労に終わる。望みなど、未来には一つも無いのだと思い知らされる。かといって、「失うことが怖いから私はしたくない」などといえば「したくないだと、倫理的に許されると思っているのか」と周囲にも、親戚にも、社会にも思われる。そして、「しない」という選択肢は、あっというまに他人によって握りつぶされるに違いない。そして、そう言ってしまった後でも、福祉施設に入れたのも「しない」からだ、お前が怠慢だからだ、といわれ、軽蔑され続けるだろう。たとえ、そこから努力を続け、終わりまでやり遂げたとしても、その烙印が決して消えることも無いだろうし、そう言葉に出した自分自身を消したくなるだろう。はじめから福祉施設に入れても、近所では「あそこの人は施設に入れられてカワイソウ」といわれ締め出されるだろう。「なにかをする、しなければならない」ということをせずにのんびりと過ごす選択肢は、もはや犯罪だ。「何故なにもしなかったのか!」「何かをすれば死なずにすんだのに!」「もっと長く生きられたのに!」罵倒と非難に煽られながら、そこにある静かな「幸福」は一瞬にして「地獄」へと蹴落とされるだろう。自由に選べないのに、「義務を怠った」として「どんな行動をしても」責任を負わされる。何もかも、どれを選んでも地獄のようだ。
「できません」
したくない、と言葉にだしてはいけない。そう考え、「したくない」という言葉を黒墨で丹念に思考の底から消していく。それは欺瞞かもしれない。全てを、自分すら欺いているのかもしれない。
固まった灰色の彫像のようにその場に立ち竦み、動けないままで、がんばれと声をかけられるだけで、誰も、この暗闇から掬い上げてはくれないのだ。「したくない」と考える自分の存在が赦される事も、承認されることも、私が「生きて居る限り」決して、ありえないのだから。
「認められないこと」をすることを「無駄」だと考えてしまう事が、この問題の根深いところにあるのかもしれない。ただ単純に「欺瞞」だとか「嘘吐き」だというレベルの話ではないのだと思う。
結局のところ「できるのに、しない」人などいないことに思い至る。できるのならば、するだろう。何故なら、それは「承認欲求」と「社会的義務」を同時に満たすことができるからだ。「承認」という他者からの「存在の肯定」こそ、介護する側が本当に必要としているものなのかもしれない。そこを無くして、「倫理」や「責任」を個人に問うことは酷であると私は思う。
他者によって、自由に選び責任を負うことを社会から抹消され、「義務」だけを宙に浮かせ、それを「つかみなさい」といわれる。欲求と自由を剥奪され、義務と責任を追い立てているも同義になってしまう。
それは、「問う側」の責任である、というわけじゃない。ただ「問うた」だけの事実が、唐突に「義務」と「責任」へと至ってしまう人の思考――自由が制限され、制限された中でどんな行為をしても責任として負いたてられる苦痛と圧迫感が現実に起こることのように想像できる事――と、そういった考えに至ってしまうように仕向ける社会にこそ、問題の根がある。
「あなたが選んだ行為を、誰が責めてもそれはあなたの追うべき問題じゃない、周囲の問題をあなたに擦り付けているだけだ。それを理解した上で、”選んでよかった”と思えるように”頑張る”ことはしよう」
まずそう言わなければならないのかもしれない。「承認」されることで「欺瞞」を吐き出し、根底にある本音と恐怖を語ってくれるかもしれない。「欺瞞」で塗りつぶされた墨を取り除くことは、並々ならない周囲の努力が必要になるかもしれない。すぐに取り除かれる人もいれば、他者を信頼しない強固な壁が既に出来上がっている人もいて、難儀するかもしれない。けれど、こういった欺瞞や嘘を個人が包み隠し、死ぬまで抱いて苦痛の中生きていく事を、誰も望んでなどいないはずだ。
だから、承認によって一人ずつ意識の壁を取り払うことがまず先決で、「自由に選択できる」小さなコミュニティを自由な選択の中で形成させて、「選んだ行為を責め立てるような人はいないのだ」という認識を促すことができれば、あるいは強固な壁を拭い去ることが可能かもしれない。