無関心なコミュニケーションにあらず

なにか回りくどいことを書いているけれど、私が思うのは、このテストの分類でいう純粋な「無関心型」は、「私は非コミュ」と自分を規定するケースが少ないんじゃないかな、ということ。

無関心突出型非コミュについて - 深く考えないで捨てるように書く、また

もしかしたら、私はケースを敢えて作ろうとしていないのかもしれないと、考えた。

無関心ってことはないのだろうけれど、コミュニケーションを”とらない”ことに”困ってない”というのは確かにあります。

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これは、ブクマのコメント欄で応えたものだ。「とらない」ことには「困っていない」。けれど、「とる」ことには、実のところ「困っている」。
関心はあるが、関わってしまえばより面倒を起こすだけだろう、より相手を傷つけるだろう、どう返答すればよいのかわからないのだろう――そう予測できてしまい、また、そうなることが頻繁にあった事例が、過去多数あったという経験の元、「コミュニケーションをとらない」という選択を採る。そして、「とらない」ということで「困らないケース」が徐々に増加する。それによってトラブルが減少する事を「とらない」ことで学習し、こちらのテストを採点した結果「無関心型」に分類される傾向の答えを選んでしまった。
議論や自己を発展させるような興味のある分野以外自分から関わろうとしていないのも、過分にそういった原因があるのかもしれない。といいながら、他人事のように思っていることが、傷が深いことを証明しているのだろうか。
「不器用な態度をとることが出来ない不器用さ、バランスの悪さ」というくらい入り組んだややこしさを持ってしまっているのが、私なのかもしれない。
――そういうことなので、余計な事を言いそうだ、ということでコメントをありがたい、と思いながら、その有難さを失わないように挫かないように、と避けている傾向がある。避けてしまっている分、新しいものを作っていくことで倍にして返していこう、と考えていたりするのだけれど、これは恐らく周囲には理解されにくく、推測されにくい方法なのだろう。
人と関わりトラブルを起こし、それにより困難さを感じてしまう場合、その齟齬に悲しみや苦痛を感じてしまうことが、私は辛い。関わりたい、という気持ちがあるからこそそこに困難さが幾度も生じ、自分も相手も傷つけあいながらの日々だった。これは、また後日記す事になるとは思うけれども、それはまた別の話として――要するに私はこの時期を通過点として過ごし、その後に「なってしまった私」であるのではないか。
勿論「あまりトラブルも起こす事はなかったけれど、それなりに付き合えている、お互いにつかず離れず」といったバランスのよいかかわり方に同意を示す人が大勢居るのだろうと思う(むしろその方が多そうだ)。
つまり、私や私の述べたコミュニケーションのとりかたに同意を示したかもしれない「あなた」はまた違ったかかわり方を示し、その上で他者から「見られている自分」――「無関心さ」を相手に表明している、ということになる。
その「見られている自分」を、(おそらくテストされた誰もが)自分の中に見出している。結果、テストの妥当性の問題性はあるけれども、「見られている自分」の採点が、出てきた「カテゴリ」と「点」という指標によって測られ、少なからず結果となって反映されているのだ。
結局のところ、「なってしまった私」に誰もがなるべきではない。人格は流動的であって、コミュニケーションを取る度に自己に反映・更新されていくものとはいえ、学習し適応した人間は別の環境に移りにくくなってしまうし、改善しようとするきっかけや要因が見つかりにくくなってしまう。劇的に変えるには同様に劇的な要因が必要で、改善しろ、といわれてできるほど、人は安易な動機付けはされない。避けていてもトラブルは必ず起こる。そのうえで、頻度を出来るだけ下げることに奔走し、私は「避ける」選択をしている。
つまり、できればコミュニケーションに困難さを感じている人は、適度に人、サイトや記事を選り分け、出来るだけ困難さ・傷つきを感じない選択肢を選んで欲しいと思う。それが出来れば苦労しない、ということはあるのかもしれない。強制や、突然目を逸らせないような記事が目の前に出てきたりもする。叩かれたりすることもあるし、不用意に傷つけられる事が何度もあるからこそ、「辛い」と表明しているのだ。そうはいっても、できれば避けたいものは避けたい。
それでも、避ける事も出来ず、それに困難さを感じ過ぎて、徹底的に避ける方向を選ぶには、余りにも悲劇である(と、自分が悲劇であるといっているわけではないことは断っておこう)。辛いときは、実は「頼れる人に頼る」ことが重要なのだと気付いたのは、つい最近でもある。
っていうか、これは「過去の私に言いたかった事」ではないのか。