実存からの思索――罪、生と死

「自責としてならよいが、他人の責任を追及するような言い方はいかがなものか」という言い方が複数散見された。これは単に、「他人から責任があると言われたくないだけ」なのではないか、という感じもした。ただそのことが、暴力だという批判は承知している。承知した上でなお、他人の責任は、それがあるならば追及されてよいとは思う。もちろん、そのときに「言い方」や、「誰が言っているのか」という問題は残るとは思うが。

人を責めるのはよくないのか? - G★RDIAS

x0000000000さんは本当に誠実であろうとする人なのだと思う。私は、それを否定もできないし、肯定も出来ない。正しいとも、間違っているとも言えない。けれど、その思想は誰かも、自分すらも不幸にしてしまう鎖ではないか――と、私は思う。

以前、倫理と福祉のことを論じたのだが、今回は少しそこから離れて考えてみようと思う。

罪と怨恨と絶望の輪廻

「原罪」を抱えながら、それでも生きる方法があるのではないか、と考える人がいる。他者が不幸なのだから、自分が不幸であってはいけないのではないか、と考える人が居る。他者を貪るのは”悪”だ、だからそれを、実在としての”悪”を常に意識し、意識に上らせたまま生きなければならない。それが、たとえ”何”の為に行為するのか、ということが分からなくても。
認める、ということは息が詰まる事である。「罪」を直視し、背負ってきた年月が多い人ほど、「罪」を認めることが怖くなる。そして、誰かに「罪と罰」を与え続け、永遠なる苦痛を与えていたのだという事を思い知る事が怖くなる。そして、直視しない自分をまた、責め続ける。それが理想であるという理念に摩り替え、声をあげて苦しんでいる誰かに「おまえが弱いからだ、罪を認めないからだ」と言うことが出来る。例えばの話、私のような、妙に考え込む人間に対しての「罪」を問う事を”悪ではない”と更にいうのならば、私はそれを否定できないと思う。それは信念、信条の問題であって、それを解消する術を、私は未だに知らない。
もちろん、まったく「他者に害を為している」ことなど理解もせず、ただ自分だけの利の為に生きて居る”ように”見える人間もいるのかもしれない。自覚している人に言うつもりはないが、そういった人々に対して「原罪」を問い詰めたいのだ、と言う人もいるのかもしれない。それでも、私は「自分も他者に害を為しているように見られているのだ」ということを考えてもいる。
「女は自分勝手だ」という人がいる。けれど、女という性別をもった人間の中の幾人かは、「男は自分勝手だ」と思っていることがある。問い詰める人間の行いは、ある人間にとっては”悪”と為りえ、問い詰められた人間の行いも”悪”となる。
つまり、”悪ではない”行為などどこにも存在しない。何を行なっても、誰かが悲しみ、何を考えて言葉を発しても”悪ではない”言葉などない、ということになる。これが、わたしの小学生時代のシンプルな思考回路である。
「罪である」と問う人間が、常にその言動の「罪」を問われること、その「罪という不幸」に陥れてしまった罪を、誰が、どう抱えるのか。それとも誰かが抱えてくれるのか? 否、抱えてもらう事が「罪」である――私が今発している言葉も、つまるところ”悪そのもの”である。”否定されるべきもの”である。”行なってはならないもの”である――けれども、私は言ってしまっている。悪を、その体現を。
その矛盾を、誰が、どのように解消するのか。矛盾を解く術を知らないまま、「行為」と「理想」の断絶によって不幸の底へいくのかもしれない。死ぬまで、それを抱えて生きるのかもしれない。何のために「罪」を抱えるのか、という意味すらもわからずに、ただひたすらに。だから、生きているなかでいつも考えていた、罪という思考を振り払いたかった。きっと、それだけのことなのだろう。その、罪を振り払いたいという懇願ともいえる願望を振り払い、誰かが「罪だ」と叫ぶのならば、私はどこまでも、際限ない絶望の場所へと落ちていくのだろう。
人間は誰もが「生」と同居して生き、「死」と同居して生きている。
そして、生と死といった現実は、「罪」といった言葉によって、無限増幅される。そもそも、「罪」「原罪」といった概念こそが無限増幅装置であり、まして「死と生」に見詰めされられた介護者は無限増幅の「罪」を背負う。生というエネルギーへと向かう場合、それは豊饒となるが、死が見えた瞬間、エネルギーの位相は逆転し、逆に煉獄へと繋がる扉となる。
ただ――現実に介護する側は、果たして「生」への希望に満ちているものなのか、「死」だけが突き詰められるような現実になってしまっているのか、という疑問がある。「生」のうちにあれば、その問いは意味を持つかもしれない、という考えは、留保している。
私は、x0000000000さんが「全ての介護する人間に罪だというつもりはない」ということを十分承知している。そして、全ての介護者が常に罪を背負いながら「何で私は生きて居るのだろう」と考えるわけでもないということも理解している。
それでも、と考える事がある。その「問い」に、潰されないで欲しい。
いつか、絶対に、その「問い」と「罪」といった概念に潰される日が来る。誠実な人ほど、それに苦しむ。そして、その「罪」から逃れたいと考えることもあれば、苦しみの余りその「罪」を他所に預けることがあるかもしれない。
それは、身近な人に「罪だ」ということで自己の罪の孤独という重荷を共有する事で解消していることであったりもするし――「侮蔑」「差別」「宗教対立」は、その究極的な体現である。
「罪」を行なっている人を、「おまえも罪だ、おまえも自分のようになるんだ」と言うのである。その「問い」そのものが「罪」と問われるかどうか、ということを知る如何に関わらず、それらは生じる。
行いを「罪」と自虐し、その行いを「必然的に行なわせる」世界に怨恨<ルサンチマン>を抱くようになった人々に、それら怨恨そのものが「罪」の体現であることを、誰が止められるのか。
極端な話をしているのかもしれないが、おそらく問いに含まれる「罪」という言葉が人間存在の否定となると私は考えている。
すなわち――「自己の罪」とは「世界の罪」であり、世界に「怨恨」と「殺意」を抱いてしまった者の、抱かされてしまった者の、悲痛の叫びである。
何も「罪だ」という言葉に限った話ではない。例えば「あんたはダメだ」「あなたは○○人間だ」という典型的な本質論と同様に、個々の文脈によって「何故あの人はああなんだろう(あの人はもともとがだめだ)」「なんでああいった行為はああなんだろう(その行為は悪だからやめろ)」「この行為がだめなんだよ(だから行為をやめろ)」「絶望なら歯を食い縛れ(だから絶望しろ)」「みんながんばっている(だから絶望しろ、苦しめ)」――本当に、言い出したらきりが無いほどだが、それらは、単なる言葉だ。だが、そこにある「感情」には、激しい激情と、現実という絶望を与えられ続けながらも世界に流す事で希釈しようと足掻く人々の姿が窺える。
その文脈に含まれる無間地獄を、おそらく薄々は誰もが感じている。だから、「こんな罪なんて背負いたくない」と誰もが思うのだろう。背負いたくない、と考えるような罪を振り払う為に、世界こそが罪である、と自己の「罪」を中和するのだろう。そして、そのきりがない永遠ともいえる全ての概念が「罪だ」という「問い」に、全て還元されてしまうのである。人によって、感じられる大小はあれども――自己を抹消するほどの否定である。
そして、そのような「原罪の問い」に罪を感じずに、潜在的な罪を抱え”現実”をありのまま受け止める人が、「(本当の意味での)罪を感じていない」人である。そして、それを「罪だ」ということは、断ち切ることができない無限ループとなり、そのループの間隙に「罪」という言葉が介入し、変化する事の無いループへとまた元通りになるだけなのだ。
無意味だ、というわけではないが、実質、何の意味にもなっていない。その「問い」に人々の行為が変化されるものなど、ありはしない。本人の主体性によって「行為」が切り替えられるだけである――「罪である」ことを意識していないのである。「行いが変えられるならめっけもの」そうかもしれないが、それに対して、罪の無限ループに陥っている人を叩き落す役割も、その問いには含まれる(上記のように)。
結果、無限増幅される「罪だ」という問いによって「永久に罪を感じない」人と「永久に罪を感じる」人の二つへと、その問いだけで二分化され、純化され「善」と「悪」という本質的なスティグマ<刻印>を世界への憎悪と共に、人々に打ち付けるのである。際限なく己の罪に罪を感じない人間と、際限なく己の罪に罪を感じる人間。一体誰が、それを望むだろうか。もし、それを望むというのであれば、それは即ち――”邪悪”である、と私はあえて言おう。
もしかしたら私は、それを解消する術を知りつつあるのかもしれない。それをこれからは、少しずつ実践しようと思う。知らない誰かが苦しんでいれば、自らの主体性を抹消し、彼らの主体性をありのまま受け止めよう、と祈る。「罪だ」と問う前にするべき術があるのだと、私は知っている。
本当に、それら行いは「罪」という概念なのですか――と私は問い直そう。
崇高な理想はなく、「罪」という唾棄すべき悪魔は誰もいない。責任も、とりあえず、頭の底から振り払おう。「罪」から生じる「際限ない罪悪感」を、とりあえず棄却しよう。そこから、自己の肯定ははじまるのだ、と数年掛かるかもしれない私の「罪」の問い直し――私はここで、ネットの片隅で、不幸が再生産される「現実」ではなく、「人間」に祈る。

彼(彼女)は諦め、自分で自分の絶望を引き受けようとする。自らに刺さった肉の棘を引き受けようとするのである。しかし、そうすればそうするほど、自分に刺さった肉の棘はますます食い込んでくるので、ついには、その棘に憤りを覚え、棘を機縁として存在全体に憤りを覚え、存在全体に対して反抗的になり、存在全体に逆らい、存在全体に立ち向かおうとする。彼(彼女)は、まるで苦痛に耐え忍ぶ英雄のように、自分の苦悩に誇りさえも感じながら自己を保とうとする。彼(彼女)は、苦悩に耐え忍び、すべての存在に立ち向かう英雄となる。だから、彼(彼女)は他からの救いの可能性を欲しない。「他の人に助けを求めるということはどんなことがあってもしたくない。(p.102)」のである。
自分自身に絶望していながら自分自身だけに頼ろうとし、反抗的に自己自身であろうと欲し、自己の絶対化を生み、さらなる絶望の深みへと墜ちる。かくして、絶望は究極に達する。自己絶対化は悪魔的な絶望である。
こうした自己の絶望に受動的である場合の最高度の絶望の哲学を、カミユやサルトル無神論実存主義の文学思想や虚無主義ニヒリズム)に見ることができる。カミユの『異邦人』やサルトルの『嘔吐』は、その典型的な例である。
こうして人は自己意識を上昇させ、ついには自己絶対化にまで行き着こうとして、その度合いを深めていくのである。そして、自己絶対化こそが「罪」である。従って、絶望は罪であり、死に至る病は罪そのものなのである。

http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/kierkegaard_1/kierkegaard21.html

「倫理的段階」で生きる者、つまり、生きることの安定を、社会的な安定を保証する倫理道徳の中に見出し、一見、何の不安もなさそうに見える知性と教養にあふれた常識人にも、「不安」は容赦なく襲いかかる。なぜなら、彼の生もまた「無」に包まれたものでしかないからであるが、その場合の「不安」の本質をなすものは、「悪に対する不安」という形を取る。
ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、この「悪に対する不安」で、三つの場合を提示する。第一は「不当な現実性として、否定へと向かう」場合である。表現が少し難解であるが、要するにこれは、悪や罪に対する恐れや不安のことである。世間の常識に従い、倫理道徳を尊守し、罪を犯さないように心がけ、社会的な安定を求める心には、自分が罪を犯すのではないかという不安が渦巻いている。そして、この「不安」は、自己正当化の衝動に駆られ、不安をごまかすために、罪や悪の存在そのものを否定しようとする。この不安のごまかしは、実に巧妙に行われる。
第二は、罪や悪がどのようにごまかしても否定できないことを自覚し、やがて、罪や悪に対する恐れと不安が鈍化していく場合である。悪も悪人も、確実に存在する。知人のように、善人ぶった顔をして人を破滅に追いやるような、まるで悪魔のような人間も厳然と存在する。罪はぬぐいがたくある。自分の中に根ざす罪性もある。これらが否定できない時、人は、悪や罪に対する感覚を鈍化させ、これと「馴れ合い」、自分自身を安心させようとする。「不安は、罪の現実性を全部ではなく、ある程度まで取り除きたいと思うのである。より正確に言えば、不安は罪の現実性が、ある程度までそのまま残ることを欲する」と彼は言う。つまり、罪と馴れ合うことによって、人は不安を解消しようとするのである。「この程度までは、罪でも、悪でもない。誰でもやっていることじゃないか」と考えることによって安心へと向かおうとするのである。「不安が鈍くなればなるほど、それは、罪の結果が個体の血肉の中に食い込んだこと、罪がこの個体の中に市民権を確保したことを意味する。」その時、彼(彼女)は、善人の顔をした悪魔となり、接吻をもってキリストに近づいたユダとなる。
第三の場合は、「不当な現実性の故に悔いを生む場合」である。「悔い」は現実の後からついてくる現実の影である。従って、「悔い」は決して現実の罪そのものを変えることができない。にもかかわらず、罪を除く可能性を追う。この現実の罪と「悔い」との関係が不安を頂点にまで高め、結局、自分自身を捨ててしまうか、狂気となるかのどちらかである。たいていの場合、これは「あきらめ」によって、自己自身を納得させようとする。

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詩を歌い、美を愛し、真理を求め、善良さを喜ぶ人間、誠実さを求める人間。優しく微笑みをもって接し、豊かな愛情を注ぎ出す人間。まさに、この人間の奥底に「悪魔的なもの」が住みついている。そして時々、顔を出す。
この「悪魔的なもの」が顔を出すのは、それが「善」に触れたときである。「悪魔的なもの」は「善」に耐えることができずに、「善」の前で直ちに顔を出し、二重の仕方で自己をその内に閉じこめようとする。一方では自己防衛という方法によって、他方では攻撃的自己主張という方法によって。それらは相手に応じて自己防衛的となったり、攻撃的自己主張となったりする。こうして「悪魔的なもの」は自己を不自由さの中に閉じこめ、沈黙を守ろうとする。ちょうど罪を犯したアダムとイヴが神の呼びかけから身を隠そうとしたように、人が呼びかけに答えなくなった時、彼(彼女)は「悪魔的なもの」に支配されている。
「悪魔的なもの」は、ヴィギリウス・ハウフニエンシスによれば、「喪失された自由」である。言い換えればそれは、真の生命を腐食させるもの、破滅と死へ向かわせるものである。これがもたらす作用は、忘我性(本来の自分自身を忘れること)、自暴自棄、自己欺瞞、迷信、内面性の欠如、精神性の欠如などである。ここから、ある時には極めて能動的な、また別のある時には受動的な行為が生まれ、さらに「悪魔的なものは」これらを一体化して、自己を追求するというのではなく、自分自身を興味の対象とすることによって、ごまかす方向をとる。たとえば、「不信と迷信」、「ごう慢と卑怯」を表裏一体のものとして、「敵意」を生みだし、自己中心主義的な利益を生み出そうとする。「迷信は自己自身に対する不信であり、不信は、自己自身に対する迷信である。」「ごう慢は底深い卑怯であり、卑怯は底深いごう慢である。」いずれの場も、その中心にあるのは自己自身であり、自己防衛と攻撃的自己主張によって、自己の罪性、悪魔性をごまかそうとする。こうして人は、さらに大きな不安に包まれる。
それ故、ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、まず、「真摯たれ」という。たとえそれがどんなに愚かでも、たとえそれが苦しみや悲しみの満ちたものであれ、たとえ取り返しのつかぬ過ちの中にあったとしても、「真摯たれ」という。それによって「確信と内面性」を得ることができるからである。

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