強さと弱さ

私は「弱さ」というものを「現象」と捉えている。「強さ」も「弱さ」という言葉そのものは相対的な価値で捉えられ、また現象は流動的であり、時間と共に、濃くも薄くもなる。
もし「強さ」というものがあると仮定するならば、一瞬としての「強さ」と、ある程度時間的まとまりをもった「強さ」があることになる。一瞬としての「強さ」には、個と個の相対的な強弱のかけひきであり、ある程度まとまりをもった「強さ」はその総体的な強弱が寄り集まって、凝集性を持ち離反する力が凝集性をまとめあげる力となる。逆に「弱さ」は、この「強さ」にあてはめればいい。
一瞬としての「強さ」の例としては、互いに協力し合いながら、ある行為がある人を助けた場合、それは「行為」そのもののの強さといえる。ここには「社会的立場」は介入せず、「行為」そのものの結果のみで「強さ」を判定する。また、ある程度まとまりをもった「強さ」は、社会的立場が、隣の社会的立場を相互に「力」を交換することにある。力は金銭的な、交換可能なものであったり、力によって加工されたものを運ぶことであったりする。
これらは、全て「強弱」という揺らぎの中から認知できる二つの言葉である。誰かから見れば強さであるものも、誰かから見れば弱さかもしれない。金が強さである場合もあれば、金は逼迫した状況の中だと情報が強さである場合もある。ケースバイケースによって、強さの相対的価値は変わる。
そして、逆に「弱さ」は「強さ」という相対的価値の補集合である。強さがまず決定付けられる条件において、「弱さ」は「それ以外」の条件として与えられる。また「弱さ」がまず決定付けられる条件において、「強さ」もまた「それ以外」の条件として与えられる。更に、そうして決定付けられた間は競合し続ける。「弱さ」という価値と「強さ」という価値の間に存在する価値は集合の外側か、どちらかの集合に位置するか――逃れることでしか価値を決定できなくなってしまう。これが、「社会的条件」の中で発生する「強さ」と「弱さ」であり、絶えずこうした現象は反復されてきた。
そして、それら現象と個は一体となり、「強さ」と「弱さ」となって、競合した間隙に存在するモノは淘汰され、削られてきたことも事実だが、同時に外部空間に遁げ、外側から包み込む言葉を絶えず外側があることを発信し生み出してきた。
個の「強さ」が社会的な「強さ」となり、また相対的な「弱さ」を生み出し、個はそれぞれ言葉に包摂され意識はそれに応じて行為するようになった。「強い」ならば「弱い」場に存在する個を強さに引き入れたり殺したりする。「弱い」場に存在する個は「強さ」の場に存在する個を内部に引き入れたり狭間に引きずり込んで外部へ弾き飛ばす。
結局のところ、もし「強弱」という確固としたものが存在するのならば――もし「弱者」と叫ぶのならば、こうした抗争は絶えず続けられ、その場の呪縛から逃れることは出来ないこと、また、「強弱」という価値を更に強固にして行くことを覚悟するべきだ。「強さ」を夢想しないほうがいい。「弱さ」を蔑まないほうがいい。そこから一歩踏み出せば狭間に居続ける恐怖は常に横たわっている。
思考の「弱さ」が発話や行為に影響することがあっても、発話や行為そのものが思考の「弱さ」にはならない。事実の積み重ねの「弱さ」があっても、それは思考の「弱さ」を意味しない。「強弱」の断絶がある場合、そこには必ず自他の影響以外の、全く他の原因がある。
もし生きて居る中で、真に「苦痛」が存在しない世界を求めるならば、自らが輪の外へ逃げ出していくか、「弱さ」の意味そのものを解体し、細分化していき、更に今いるここから<言葉の回避>をするしかない。