kmizusawaさんの日記閉鎖について
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070512/p1
kmizusawaさんお疲れ様でした。短い間かもしれませんが、blogをはじめてから、私はkmizusawaさんのサイトを拝見していて、いつのまにかkmizusawaさんが私のサイトを見に来てくれていて、またコメントも残してくれたり、言及してくださったり――と、kmizusawaさんの優しさが伝わってきてblogをいつも見るのが楽しみでした。
「誰かを傷つけてしまう」こと、また「傷つけることで傷つくこと」――「傷つけていないつもりなのに、傷つけた事実を盾にして自らの言論が正しいという形式を持って個人のセキュリティホールをついてくること」という「言葉の力」によってkmizusawaさんが敏感に感じざるを得ない状況下にいたのだと思います。ただ、kmizusawaさん自身のセキュリティホール――感情と心の部分を、kmizusawaさんは曝け出しながらも、それに対する対処法、またそれに対する「メタ認知視点」をしないまま、セキュリティホールをblog上に放ってしまったことが、おそらく最もkmizusawaさんにとって辛い事であったように思う。「心のセキュリティホール」は、誰にでもありますが、「心のセキュリティホール」を本人が見過ごされたままでは、言葉によって誰かに投影している事も、また誰かが自分を投影している事も気付かない。また、「心のセキュリティホール」を熟知している人間は、簡単にその部分を知っているが故に「攻撃」として突くことができます。セキュリティホールを曝け出してしまうことと、曝け出す事に必要性があることは、「書いた」という事実とは裏腹に全く違う現象と認知を生み出します。しかも「メタ認知」を持たない人は持つ人に比べ、セキュリティホールからのダメージが高い。生身に「声」を受けてしまい、どうしてもそれによって「周囲から責められている」感覚を覚えてしまう。
この記事では、その「言葉の嵐」と「視線」に追い詰められているのが私にはとても伝わってきて、こちらの記事でそれへ言及させて頂きました。
kmizusawaさんの前に今までそうした人が集まりにくかったのは、ひとえにkmizusawaさんの人柄が他者の心を豊かにしたからです。画面に向かい合う人々はそこに何らかの感情の豊かさを覚え、安らいだ。生活という実感から語る言葉は生き生きしていて、私と逆の方向性を持った言葉として、とても懐かしい感覚を覚えた。そして、それは誰とも平等に接したい、というやさしい試みがそうさせているのだということを、おそらく誰もが知っていた。
また、表面的には個別のエントリ内容への批判の形で、事実ではないことや勝手に思い込まれた意図を前提に、まったく関係ないところに政治的スタンスを持ち出されたり人間的な信用を貶められるような道徳的な批判を何度もなされることにうんざりしたというのもあります。
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070512/p1
今問題にしなければならないこと、また今後改善していかなければならないことはここです。政治的スタンスを持ち出すだけなら、「そういう立場だ」という名札を掲げる事ができる。それに対して、事務的な対応で接すれば、相互理解は可能であるという可能性はあります。それは「立場・スタンス」であって「自分そのもの」ではない。けれども、「立場とアイデンティティ」が一体化した人に対応をすることはkmizusawaさんの仕事ではなかった。だから疲れてしまったのだと私は思います。
メタ認知やセルフモニタリングによって、ある程度「自己を守衛」する方法はあります。政治的スタンスを自覚していない人にとってもメタ認知は有効ですし、また自分を守る盾にもなる。
kmizusawaさんが休まれたのは最も正しい判断であったと思います。これ以上傷つくわけにはいかないのであれば休む必要がある。