エコー

最近、どうもエコーのような返事しか出なくなっている気がする。自分では、疲労しているかどうか、ということがよくわかっていないのかもしれない。
医師に「通常が抑うつ状態だったら、外からはそう見えても自分では気づかないですよね」と言ったことがある。そういうこと、と返された。自分では通常の状態だから、もっと悪くなったとしても、もともとが悪い場合気づきにくいということもあるのかもしれない。
仮に、常に離人状態であったとするなら、体の異常だけが残って意識は明瞭だから、体の不調と意識がまったく連動しない。しかも、自分ではそれに気づけない。気づけないから、誰かの言葉が「大丈夫?」という声だったとしてもたぶん何のことを言っているかわからない気がする。だから、今まで多分外からみた状態が何か「体」で反応して、それを察知した人がいたとしても、それは<私>ではなくて、<私>の入れ物を評価しているに過ぎなくなってしまう。
悪い状態を感知するには、よい状態というものがまず存在し、そこから徐々に漸近的な曲線を描きながら悪化していくものなのかもしれない。y軸の漸近が+aの状態であったなら、そこから-aの状態が分からないのだろう。
やっぱり、周囲の「声が何を示しているか」とか「誰のことをいっているのか」というのがまったくわかってない。「周囲で何か言っているけれど、それがネガティブとかポジティブとかそのようなものだろう」ということはわかるが、「私のことか/そうでないか」ということでしか判断が出来ていない。波長解析というのは、個ではなく、位相に分断される周囲の状態だから、私はいつも「私は常に嫌われている」「私は信用されない」というところから出発しないと、近づくこともできない。だから何かひっかかるものがあるとき、ただ謝るということしかできない。私はわけもわからず、「なにか悪いことしたのだろうか」と思う。実感は得られなくても相手がそう思ったのなら、そうなのだろう。ただ、個人単位ではなく集団単位で物事を捉えるから、集団の言葉そのものが評価としてやってくることになる。だから、全てを受け入れていたら全てを背負ってしまう。http://marginaleyes.blog78.fc2.com/blog-entry-64.htmlの記事を拝見して、少しだけ今は理解できたような気もする。
社会的ネットワークとしてのものが正しい、というそのものが言語表出として現れない限り私には知覚できていない。
直接言葉での評価でも、私自身のこととして受け取ることが出来にくいのだから、周囲の言葉を受け取るのはもっと難しい。だから、転移はまったく他人事のようにしか思えないのだろうと思う。ただ、前に進むためにも外的要因がいる。「苦しみを繰り返す」ということをしたくないのは誰もが同じなのだろうけれども、それが私は一歩ズレているだけなのかもしれない。
それでも多分私は、妙な話だけれど、私は私自身の利益を私自身のものとして受け入れることができない。受け入れようとすることがあまりにも重過ぎるから、誰かに渡している気がする。重いというのは生み出したものに対してではなく、私にはよくわからない感情なのだろう。本当に何もわかっていない、という事実が苦しい。