立場とアイデンティティ


XY軸平面上にいる人々は「立場から物事を捉える状態」、XnYn軸平面上にいる人々は「意識をどの立場に置いて感情を発露したらいいかを考え、AとBの乖離を狭めようと考えている状態」、そして、「それら立体状を網羅している状態」の三通りがあります。それぞれどこからのものの捉え方で発話しているかによって「世界が狭い」か「広い」かの印象が変わってきます。
まず、発話にはこの立体の「中」から物事を語ることになるという言葉の限界があります。どの世界でもAnが一番強く、XY軸平面上の「立場」という観点から物事を見ている人が大多数であり、その人達はAが「強い」と認識している。つまり、相対的にBが弱くなる。Bnから発話する人はBの「立場」にアクセスしてから発話しますから、必然的にAnのAへとアクセスした意見も、Bnの発言力の強弱を相対化する権限が出てきます。

Owne Group Public permission
An rwx r-x rw- 756
Bn rw- r-x rw- 656
A r-- r-x rwx 457
B r-- r-x r-- 454
XnYn軸平面上のownerは個人、groupは同じ視点(AnならばAnの、BnならばBnの)に立ち分布する人、publicはXY軸平面上の立場への権限で、同じ平面上にいる権限強制は不可能です(立場といった物理要素ではないから)。XY軸平面上のownerは同様に個人、groupは、同じ「立場」に立つ人、publicは、この場合込み合っていて、AはBの「立場」の書き換えと実行が可能ですが、Bは「立場」を書き換えもできないし実行もできません。
そして、XY軸平面上の「立場」から物事を捉えている場合、稀にXnYn軸平面上からAやBを語る人をXY軸平面上に押し込める事があります。「あなたはこうなんですね」といった「立場」に押し込める。実のところ、言葉の力は三次元よりも二次元のほうが基盤が強い。XnYn軸平面上の人々は、その発話によって、広い視野からXY軸平面上へと「引き摺り下ろされる」。発話者全員が、このnの連続性を見渡しXnYn軸平面上から発話しているのならば話がこんがらがったり、齟齬だけが残ることはほぼありません。しかし、XY軸平面上の、それぞれの立場からnを考えている場合、XnYn軸平面上から発話している人々をXY軸平面上のものの見方に押し込めてしまう。
そこから視点を元に戻すのは至難です。広い視野から物事を捉えるのにも、脳のグリコーゲンが膨大に必要になるエネルギーだというのに、戻るのにもまたエネルギーが必要になってしまう。三次元視点から捉えていたものが、唐突に「言葉」という呪いを受ける事で、湧かないように抑えていた感情が嫌悪として感じられるようになる。本来、XnYn軸平面上の人々は流動的で、AnでいられることもあればBnでいられることもあり、互いに意識交換が可能であるのに、AやBといったXY軸平面上の人々から与えられた言葉によって固定化され、n軸を捉えていたXnYn軸平面上にいた広い視野が、その時点での発話がAnならばAn、BnならばBnに視点固定化されてしまう。
発話条件と環境によって立場が違う事を知らないXY軸平面上の人々は、「人によって態度が違いすぎる」と責め、相手をその立場に固定化させようとする。しかも、それが互いに打ち落とされる回数が多くなるほど、BnからAを――AnからBを嫌悪しあうようになり、「互いに打ち落とされる力」も膨大となり、議論しても互いに齟齬だけが残るようになります。やがて、XnYn軸平面上とXY軸平面上の間は空洞化していきます。
しかし、Bnから発話することも、Anから発話することも実のところ――XY軸に存在する点の分布をP地点へ必然的に集めるようになっています。Bnから語ればBの自尊人を満たしながらAをけなし、Anはその逆であるため、それぞれの自尊心のチップを満たしながらP地点へ集合できる。対話と議論は、おそらく「こんがらがることがあっても」有益です。
XnYn軸平面上から発話する人にとって、XY軸平面上の人々は「自らをアイデンティティに押し込めている」ように感じられます。「立場」といった意識にがんじがらめになり、そこから動く事もなく、P地点に集めようとしている人を、鳥を落とすように落としていく。そうされていくうちに、XnYn軸上にいる人々は、彼らを動かす事ができないと感じるようになる。彼らを説得するには膨大な個人のエネルギーを要する事になりますから、そこから避けなければならないと感じるようになる。それはエネルギーを貪欲に吸い込むブラックホールのようなもので、泥の中に深く深く閉じ込められた人の姿が見えないと感じるほどの暗闇です。
そして、Aにはない、Bには多くの人間の「痛み」が存在する。Aの「立場」はプラスかPという、相対的にはマイナスに近付く「軽い痛み」ですが、Bにとって「痛み」とはブラックホールの中の更に暗闇――意志を喪失する「痛み」です。その「立場」をアイデンティティにすればするほどそれは激しくなる。そして、Anの意識条件における欠点とは、Bの端にいる人を叩き落してしまうことです。「Pの近くにいる人だけPに集まろう」という風に。
”自分以外の誰かの痛み”を言葉で”感じ取り表現する”ことは非常に難しい。誰もが”自分以外の誰かの痛み”に敏感になれるわけではない。「なろうとしていない」のではない、「なるのが難しい」のです。それは「言葉」では伝わらない。ただ個人個人が個々人の心の中で受け取った言葉を「理解」する、そういったことを待つしかできない。
そしてAとBに存在する”固定された視点”を氷解させる「言葉」をなんとかしてひねりださなければならない。視点を繰り上げるにはエネルギーが要るため、譲歩しなくてはならない、ということは非常に疲れます。Bもまた視点を持つためにはAというものがあることを頭から振り払わなければならないため、それを取り除く事に疲れ果てます。ただ、Aの立場にいる人々は疲れない。ただ疑問に思い、それに対してふと思ったことを口にしていることが多い。けれど、XY軸平面上の人々も、実は”理解したくて”何かを見つけ出そうと覗いている。
例えば「現実を直視していない」という言葉で、心にある痛みの感情を、まるで大した事がないかのようにいう人々がいる。それは別段、不思議な事ではありません。何故、そういった言葉がでてくるかというと、バカにしているから、大した事ではないと考えているからではなく――「怒っている理由」がまるでわからないからです。「現実を直視していない」という人は訴えている叫び声が現実を無視した叫び声に聞こえている。本当は、心の底から現実をみて実存としての感情が存在する事を訴えているだけなのに、叫びは他者に変換され知覚されることで、まるで遠くから聞こえる遠い音やノイズとして伝わっていく。目の前の事実と理由が接続できず、意味がわからないままに、ただ感情をぶつけられたと感じてしまう。図で言えば、Bの地点に居る分布の人々が、A地点にいる個人へと、塊となって脅しているように感じてしまう。「こっちはわからないのに、なんで怒られなきゃいけないんだ? なんでそうやって、ただ分からないだけの態度を罵られなきゃいけないんだ――」と感じてしまう。「できない、しない」のではない、「難しい」だけなのです。
最終的には、XY軸平面上に意識レベルを置き立場そのものとアイデンティティを一体化させている人を、XnYn軸が存在する事を絶えず発話し、Pn地点へと向かわせる必要がある。四次元視点の人は絶えずこれを意識していますが、三次元を揶揄する人も稀にいます。
「怒り」はP地点に行くきっかけを阻害してしまうけれど、同時に気付きへと発展させるのも「怒り」です。理解してもらうには、「何度も別の表現を使って、繰り返し同じ視点状態を維持する事」「決して自分の感情を投げ出さない事」を続けなければならない。
私は人の心を語るとき、そこにある生々しい感情と”何者かに対する知覚、感覚”を敢えて抜き、論じるという行為の為に感情をそこに放って置き、そこにいる一人の人間を無視し、あたかも空中で論理を擦り合わせるように語ってはいけない、と思っています。それを敢えて知覚して、無視しているつもりがない場合でも、それでも一人の人間の感じている苦痛と知覚を抜いてしまえば、実は、世界には何も残らない。
「現実は酷薄だ、それが事実」それを認識した上で、現実に存在してしまっている苦痛を表明し、声をあげられなかった誰かを意識して反抗することが重要だと私は思います。ただ実際にそうするかどうかは、個々人の意思に委ねられる。その声が、たとえ相手に届かなくても叫ぶ事が出来ない人がいる限り、そこに降りていく必要がある。
感情、そして構造これらは表裏一体です。これは変えようもなく、また、分離する事もできない。だから、語るときは人間一人の感情が世界に対してどう関わっているか、ということからはじめなくてはいけない。
「人権」「身分」「態度」「現象」「事実」「発言」「行為」これらはその根源の感情に無理矢理付随させた、歪曲された不純物に過ぎません。感情こそ人間の実存の所在を肯定するものであり、感情から絶望、苦痛、希望、が生まれ出る。そこからまず出発し、不純物を解析し純化する作業はその後からでも、きっと遅くはないでしょう。