まなざしの余剰

まず「視線」「まなざし」というものがどういったものなのかを定義したいと思います。ここでは「他者から何かを自分の中に見出して”探られている”感覚」と言い換える事が出来ます。また、「そうした感覚を与える発言、発話」によって、それらは実体化されます。
「まなざしの地獄」から自分の話へ - Living, Loving, Thinking, Again
sumitaさんの提示されたremainder(残余、余剰)という概念を借りれば、この「らしさ」というものは、「視線」を引き受けて尚、「らしさ」という視線から回避する術を失ってしまうのではないか、という危惧からくる議論だと感じました。つまり「らしさ」を与えられた後、<I>は様々なものによって構成されているにも関わらず、それがひとつの<me>から逃れられないという危惧です。
これは「視線の強さ」というものにも関連してくるのではないか、と考えていて、仮に「らしさ」という「視線」を与えられた場合、そこから「この属性があなたと何の関係があるというのでしょう」と言う事が出来るにも関わらず、「おまえはらしさでいなければならない」という押し込める「視線」が少なからず存在する。「属性」という「余剰」をつくりだしたあと「自己」を確立し、また余剰によって更にアンフィット感を残された人々は、余剰の余剰となる。これをアナロジーとして定義するならば、A−B(100÷11…余剰1)=1…余剰2となります。この余剰2そのものが「らしさ」から回避する類推過程ですが、B――余剰1であると「発話」によって促された場合どう回避する術があるのか。
「属性」というものをひきうけている状態を「フィット感覚」と定義するならば、Aによる「確立しない自己」を得るための闘争として、Bの「フィット感覚」は即座に「アンフィット感覚」へと押し遣られ、その「アンフィット感覚」から「フィット感覚」を取り戻す為に、再度対象へと闘争を行なう。脳の類推過程において「私はそうではない」という「痛み」を生じる。闘争しなければ、存在した「フィット感覚」は「アンフィット感覚」――余剰へと強制的に向かわされてしまうかもしれない、という感覚がある。この場合Aの発話は、Bを余剰へと促す力があります。余剰となるか、またはその枠内に入るかの二者択一を彼らの脳裡に迫ってしまう。もちろん、余剰となるということは<らしさの失敗>へと向かうことになるため、他者に強制される形としての与えられた選択肢である場合、Bの枠内に入るでしょう。
「視線」とは、これまで自己が与えられてきた「経験」であり、それが「まとまり」となって「外部属性」となる。さらに、その内部で形成した「外部属性」を発話することによって(A)、「他者」を圧迫し余剰を生み出し(B)、余剰に乗らない余剰を、更に生み出すでしょう。
つまり「属性」への「発話」「発言」が他者へと向かう事が「発話内容」の文脈によって「余剰」を生み出す可能性を生じさせるということであり、「属性」から外部への言及と発話そのものが暴力的である、と私は結論付けます。
――ただし、私自身の自己完結では終わらない。新たな他者を自らの中に取り込む到来を期待するという前提において、その暴力性を自覚してなお”言う必要性がある”、というのならば、私は他者へと「私自身のイメージ」を譲渡するでしょう。

そのアンフィット感を生きるということにおいて、「自分」というのは垣間見えるということなのだろう。他者から見れば、「らしさ」の失敗、〈らしくない〉において。

「まなざしの地獄」から自分の話へ - Living, Loving, Thinking, Again

感想のようなものになってしまいますが、確かに極端なんです。どこへ行っても「アンフィット」であるならば、そこに「シグマから与えられた無限の自己」はある。更にいえば私の場合、そもそもの「らしさ」という「視線」がはじめから「アンフィット」であることで、「らしさ」という属性から既に逃れているわけです。
けれども、それは「らしさ」という発話が視界に飛び込み意識された途端「余剰」とならざるを得ないことと同義です。どの時点においても「らしさ」を体感できない場合、「らしい、らしくない」場面において、常に「remainder(残余、余剰)」となるのでしょう。そのあたりが「ラベルを与えられる事を常に回避する」ことに繋がっていくのかもしれません。また、<らしくない>状態であり続ける、ということは同調すべき「属性」から常に「余剰」となるというベクトルを持つことで、仮に意識として「らしさ」から逃れられていても、「らしさ」を他者から与えられた途端、仮に名前から逃れられていても「視線」と記憶は常に横たわっている。
また、その「視線」をAから行為として譲渡された「フィット感」から逃れるためにBへと凝集し、排他する現象が存在します。一個体であって「様々な他者から名を与えられる複合体」として存在する事に耐え切れない、自己を解体することができないという、今のところ説明のできない現状がある。ゆえに、そうした「与えられる視線に耐え切れない人々」がBというremainder(残余、余剰)をつくりだしている、ということ――しかしながら、「与えられる視線に耐え切れない人々」は、「属性」を必要としている。必要としている背景を私は知りたいと思う。