悩みと痛み

現実世界においても「持っている側」の人間は、「持っていない側」の人間を馬鹿にしていないケースが多い。

http://d.hatena.ne.jp/umikaze/20070519/p2

「持っている側」というイメージ喚起は、「血の滲むような努力を行い/行なわず、”持っている”状態となった」イメージが一つ、また「おまえは”持っていない”という劣感情を喚起させた」イメージがもうひとつあります。
しかしながら、誰一人として「何」を「持っていない」のか――それを語っていない。「素晴らしい心」なのか、「素晴らしい持ち物」なのか、また「素晴らしいブランド」なのか、また「素晴らしい職業」なのか。もし、これらを一切「素晴らしくない」ものを持ち合わせたわら人形を用意させたとしても、「素晴らしい」所、というのは誰かから見たらとてつもなく羨ましく感じられるものもあるのかもしれません。「素晴らしくない」ところもまた、「素晴らしい」と判断されることも、ままあるからです。
ならば、何が「素晴らしい」のか。
私は「素晴らしい人々」の定義を「自らの悪意に対する無自覚さとそれを他者に与えている無自覚さの二重を正当化しても掻痒にも感じないよう壁を作っている」という「状態」を表現しているものだと考えています。どこにもそれに対する定義文がないので、様々な人がこの文章を文脈の中で使用している中で読み取る事ができた意図を述べました。しかし、今のところ「掻痒にも感じていない」というのは主体がそう判断することであって、果たして他者がそう感覚しているのか、というのがわからないところです。
しかし、「あからさまにそうである」場合も確かにあると感じられます。こちらが何を訴えても「聞き入れない」、「私の判断が正しい」と他者にいわれのないレッテルを貼る状態です。ただの「認知」や「意見の食い違い」であればまだ「受け入れてもらえる」という可能性のある状態ですが、無意識の内に植えつけられた「おまえは持っていない」という言葉が想起され他者を責める事ができる。
しかし、それは自己矛盾ですが、自己を守る砦でもあります。何故なら、心の中に植えつけられた楔が脳裡で「おまえはだめだ」と言い続けるのです。そして、その「呪い」を解く論理の言葉はまだ「見つかっていない」――だから、他者にあけわたしてしまう。誰もが、それを探したがっていて、しかし見つからない。しかしながら、人は二分法ではなく、非常にスペクトラムな層によって「理解する度合いも、またこれまで与えられた苦痛、呪いもそれぞれ相違するのです。持っていない――けれどもそれは「本当に正しいのか」。
もし「素晴らしい人々」なるものが「自らの悪意に対する無自覚さとそれを他者に与えている無自覚さの二重を正当化しても掻痒にも感じないよう壁を作っている」状態であるなら、まずそこを崩したいと思います。「素晴らしい人々」という状態もまた「誰かを傷つけたくない」というヤマアラシのジレンマに悩まされているのだと感じているからです。

「持っている側」の美しさ、正しさ、社会における正当性などが強調されていて、一方で「持っていない側」の人間の惨めさなどがクローズアップされている。「持っている側」だって醜いし、正しくないし、間違ったことばかりをしているけれど、「ネットカフェ難民」だとか「ワーキングプア」だとか「結婚したくないorできない男(女)」など、つまりは「持っていない側」の人間の扱いを凄惨に描くことで、「持っている側」の劣った部分をカモフラージュし、彼らの力量を押し上げ神格化しようとしているように感じるんだ。「持っている側」の人間だって、実はあまり大したことがないのにね。

http://d.hatena.ne.jp/umikaze/20070519/p2

「持っている側」の人間も、同様の人間である、という意見に同意します。「持っている側」の人間も同様の認知状態を抱えているにも関わらず「持っているのではないのか」と見えてしまうのは、「彼/彼女が持っていない側にいる」という極めて偏見的な差別感情によって「おまえは持っていない」と決め付け発話する「現象」に明確な「強弱」タグがつけられ、自己完結的な差異化が行われてしまうからだろう、という見立てをしています。
結局のところ、人間の「行為」のみで人格が「個人の評価」で「これが私の価値観」として正当化されてしまうことが問題なのです。なぜなら、そこには「他者」が存在しない。他者はすぐ「傍」にいるにも関わらず「あの人はこういった属性だからああいった人なんだろう」と決め付け、傍にいる他者の言葉を脳裡で反転し、自らの基準で推し量った後、汲み上げるのか突き放すのかといった相手の意図を垣間見ないまま「突き放そうとしている」と感じられてしまうところがあるのだと思います。すなわちこれが「ヤマアラシのジレンマ」というものであって、これを振り切るには「承認」ではなく「おまえは持っていない」という謂れの無い旧態から連綿と続いてきた呪いを解きほぐすことでしかできないのではないかと感じています。

他の人はどうか分からないけど、俺は自己評価以上に認められると、逆に不安や焦燥、自己嫌悪等の感情を抱く性質なので、自己評価度は、他者からの評価を満たす器のようなものだと考えている。器以上の承認を得る事は逆に負担になるのであれば、人並みのサイズの器が出来て初めて、人並みの承認を受け入れる態勢が整う事になる。
弱者から承認を得るのが難しいのであれば、「素晴らしい人たち」から得るほかないのだが、いくら本人が出来る範囲で努力したとしても、彼らから観てどんぐりの背比べ程度の成長であれば、承認は得られない。であれば、自分が「素晴らしい人たち」側に回るしかないんじゃないかと。

http://originaltheory.g.hatena.ne.jp/Agguy0c/20070520/1179675592

先ほど、「素晴らしい人々」というものがどういった定義であるのか、ということを述べましたが、この「素晴らしい人々」というのは「(自分自身が)素晴らしい(と信じてやまない)人々」であると感じているので、寧ろ、私はAgguy0cさんはAgguy0cさんの優しさを残したままであればいいな、と思います。寧ろ「自分の言動に注意を払わなければ」この定義での「素晴らしい人々」になる可能性は誰にでもあるわけで、こうして「素晴らしい人々」と呼ぶ事は、デメリットになりこそすれ、メリットにはならないでしょう。常に、自分の言動で「素晴らしい人々になってしまうかもしれない」と注意を払うコストを払わなければならないのです。
「何故承認を得られないのか」というところにも確かにあると思いますが、「承認」というのは「会社に所属する事」か「社長になること」か「接する人に優しくなる事」なのか「与える人になる事」なのか、それもまた曖昧でどこまでも際限の無い自己規定です。この、現代の情報の洪水の中では、Agguy0cさんの感じる自己規定では「どこまでも疲れ果てて」しまう気がするのです。
ヒル的欲求――と以前Agguy0cさんが提案されたことも考えてみました。これは、どれが自己に対しての「承認」と呼ぶべき状態なのか判らないことから、際限なくそれを探している状態で、相手に「鬱陶しい」という拒絶を受けた経験を「まるごと肯定」し、強い側が弱い側に対して理不尽な要求をしたことが前提である「言葉」であるのではないか、と感じました。ただ、それは自己と他者による対話の非互換性がたまたま重なっただけなのだと感じます。もしAgguy0cさんが欲求を感じていた中で「鬱陶しい」という拒絶を受けてしまったのだとすれば、それは「相手側」にも問題があることです。相手側の要求を受け入れる事は優しいことでもありますが、しかしAgguy0cさんにメリットがありませんし、それによってAgguy0cさん自身が苦しんでしまう事は結局のところよい状態をもたらさないでしょう。そして、拒絶と欲求の中で、「どこまでも疲れ果てて」しまうことによってそれを「ヤマアラシのジレンマ」と呼ぶのでしょう。そして、その境界から見渡したとしても、出口は一向に見えてこないと感じられるのだと思います。
その原因は「自分」と「相手」だけに存在するわけではなくて、「現場の状況」や「タイミング」「精神状態」にも寄与するものです。ですから、ヒル的欲求、という言葉でもって「弱い側が全面的に悪いのだ」という感じられ方をするような言葉は使う必要はないと思います。「相手も相応に悪い」「そしてその相手が悪いのは何故か」というところから考察してみることも必要ではないか、と感じるのです。

「冷たい怒り」や「抑圧移譲」もそうした「強い側」――何ら自分が「悪いかもしれない」という意識を感じることの無いまま発話される状態でしょう。ただ、こうした人々は「自分が正しいという信念」が崩れる箇所を「突っ込まれる」とたちまち「強い」状態ではなくなります。何故なら、「相互」に突っ込みあいがされること、たとえそこに完全な理解というものがなくても「対等」へと唐突になることができる可能性が、そこに存在することになるからです。すなわち、その状態にもっていき、「対立」の中でも「対話」へと持っていく事があれば、それは規定されない承認欲求ではない――「自己肯定感」を信じられる状態に繋げることもできるのかもしれません。