断絶のモルタルと空

私はあの講演で自閉症を理解しようという人・日常自閉症者と接している人との間にさえまだとてつもない大きな壁があることを知り、悲しみと怒りを感じるとともに、私が母にどれほど多大な期待と要求をしていたかを改めて知りました。
先生が言われた、自閉症に生まれた不幸とはこういうことなのだと私は理解し、自分の不運を嘆くと同時に、母の不運をも悲しんだのです。

http://d.hatena.ne.jp/fuuuuuuun/20070521/p1

同じ状態だ、と言ってしまうことは危険かもしれませんが、非常に「今の私」に似ている印象を受けました。私も「本当は言葉なんて覚えなければよかった」と何度も感じました。言葉を覚えてしまった事に、何度も「忘れたい」と感じました。けれども、私にとっての「力」はもはや「言葉」しかなく、痛みを伝える事がこれまでできなかったことを伝えるための方法も、他にはないのです。更に、いつでも「下らない」と言い捨てることができることで、言葉すらも使えなくなれば、また私は「無」になってしまう。
昔――小学生の頃でしたが、「人間になる夢」というのを見た事があります。海から陸に出て、そこで一人の人間と出会い、その人を私は「母」と呼んでいました。そして暮らしていくうちに「おまえは人間ではない」と言われ、私は「人間」として暮らしていた人生が全て「無」に帰る事になりました。絶望の中、再び海で「人間」のまま自殺しようとするのですが、最後に「人間になりたい」と海の底から見える太陽に向かって願いながら、底へと沈んでいく――という夢です。
軽くかわされる言葉が毒となるのならば、何も言葉を交わさないほうがましだと思うほどの恐怖――というよりも「絶対に関わる事のできないだろう」絶望です。「関わる」というのは、肉体的接触、言葉によるコミュニケーション、笑顔、悲しみ、その他全てについて「関わってはならない」と感じる絶望に対する恐怖です。「絶望」を避ける、ということは「他者と全く関わらない」ということになります。けれども、今ではそれでは「生きていけない」。「心を通じた対話」をするたび私は「言葉の断絶」を常に感じ続けてしまう。レッテルを貼られるたび「そうである、そうでない、そうである、そうでない、けれどもそうだといっている、いっていない、けれども――」と、ワーキングメモリからこの情報が消え去るか、何かによってこの曖昧さを打ち消さなければ忘れる事が出来なくなってしまう。

言葉がわかり物事がわかっていくということは、こうした恐ろしいことの連続で、それは言葉や社会のルールがわからなかった時代とはまた別な恐怖で、私はただただ怖くて仕方がないのです。

http://d.hatena.ne.jp/fuuuuuuun/20070521/p1

怖い、というよりも「気付きたくなかった」「忘れたい」と私はいつも思っています。――それでも、それに「気付かずただ受動的に傷を受けている」という絶対的な断絶に気付いたことになる。その断絶を少しずつ解き明かして、その種明かしができればいいのかもしれない、と思います。
コーチングにしても、もうちょっと「シンプル」なものもあればいい。ただ、「知識」によって理解は深められても「リアルタイム」の断絶は変えられない――というようになかなか前向きな発想にはなりませんが、それでも色々と解き明かされていこうとしている分野もあって、それによって可能になる事もあると感じます。