Me'mento-Mori

「死」ということを、私は幼いなりに考えた事がある。「死」という状況と「死ぬな」という規範・まなざしの板ばさみとなって「死」を選ぼうとしたことがある。「死」という可能性は日常の中に、「死ぬな」という言葉は私の内側にあり、その矛盾が、「現実」が変わらないことによって延々と脳裡を駆け巡る。
私は、この世界での「生き辛さ」というのは、「正気でいる苦痛*1」なのだろうと思っている。それは「狂気*2」であって、「怪物*3」ではない。前者を「自己が全体に埋没している生」という感覚と定義するとすれば、後者を「全体から自己を投棄し生に関わらない生」という違いに定義できる。
怪物となったものにあるのは憎悪ではなく虚無だ。自己も他者も、そこには存在しない。観念と概念という悪魔だけが脳裡に存在し、それが肉体を延々と操る。虚無を知らない人はこの虚無の在り処を知らないため、虚無に存在する人間の精神を理解したとしても断絶となった溝は消えない。言葉はそもそも感情と恣意が存在する為、人がそこに感情を乗せながら出来る限りの説得を試みても、虚無にしてみれば「おまえになにがわかる、なにもわからないくせに」となる。人は説得を試みるというコミットを行なう事で虚無に吸い寄せられ、また虚無になりかけている人間も、彼らとの差異を際限なく感じさせられるという悪循環が生じてしまう。次第に、両者は巨大なブラックホールへと引き寄せられ、自己も他者もそれによって磨り潰されていく。
その恐怖から、虚無に応答した人は「ブラックホールに吸い寄せられまい」と距離を置くようになる。彼らから見れば、彼の苦痛は「ナルシシズム」に過ぎないが、そう思える人はおそらくこれまで正気で居られた人間なのだろう。ただ、そうした感覚を知らないからこそ、虚無へと容易に吸い込まれることもある。だから、「ナルシシズム」と呼びながら「距離」を置く必要があるのだろう。
”必ず”虚無を助けられる、という人はいない。「観念」という積み木を基底から切り崩すことはできるが、その切り崩された虚無を必ず助けられる、とは必ずしもいえない。切り崩した後、救えるかどうかは「相手にその気力があるか」、「生きようとする情感がまだ残っているか」という賭けでしかないのだ。切り崩された相手は、無防備となった自分を守ろうと、「攻撃される」という観念によって「他者」を攻撃する。それまでの「虚無」が大きければ大きいほど攻撃する度合いも強く、また、安易な言葉が「痛み」を抹消し攻撃へと転化する起爆剤と化す。つまり、切り崩した相手が切り崩された相手の虚無と憎悪を担わなければならなくなってくる。ただ創作物にはそれを代替し依り代として機能する力がある。邪悪さそのものが「存在する」ということを表明し、存在肯定を一手に引き受けるのだ。
また、怪物を制御する手綱があるとしてもそれ自体が幸運という事にはならない。今度は「狂気を受けても正気で居続けてしまう苦痛」を味わう羽目になる。狂気に対する感受性が高くなるのだ。逆に、「正気」でいる人は他者の悪意に触れる事で恐怖を伴うため、出来得る限り「恐怖」の根源から回避するようになる。そして「正気」で居る人間ほど――「正気」の人間の悪意に耐え切れず死を選ぶ。しかも、その悪意は相乗効果となって高めあい、単一の整合性の取れた悪魔を呼び出してしまう。自己感情を否定し創作を否定する観念が、一番「死」に染まりやすい。
「正気」で居続けるために「死」を選ぶか、「狂気」と成り変り破壊する方向へと向くか、それらが「終了」するまで耐えるか、という選択肢だけが残されている。耐え切れるならば、おそらく誰もが耐え切ろうとするだろう。苦痛に苛まれながら、誰も助けなど来ない奈落の底で、それでも「何かが終わる」ことを信じている。
けれども、「終わり」など来ない、さりとて「破壊」もできない、けれども何処を見渡しても出口など見当りなどしない――その場合、逆に「死」という現象が救済となる。「運命」や「人間」を希うよりも、それは非常に崇高な理念へと変わるだろう。この選択は<私>が自ら選び取ったことであって、正しい事であって、それが選んだ道なのだと「安堵」する。そうして「安堵」した後、実は「行為」にうつさず生き延びることもある。
ただ、どちらを選んでもあの時点で選択肢などないとすれば、「選び取る」のではなく、「生」が「死」によって押し潰されることを「掴み取る」のだろう。それでも言えるのは――「死ぬな」という、自分ではない誰かのまなざしに「耐えた」ことが、今生きている理由なのだろう、とも思う。あのまなざしと、そこに宿った数々の想定される想いを私は想像する。「あなたが死んだら私は困る」という意味合いでもあっただろうし、「誰かがそう言っているから」「私が将来辛くなるから」「苦しいから」という複合的なものも含んでいるのだろう。それは利己的である可能性もあるが、しかし、言葉を受けたという事実は変わらない。その言葉は、仮にウソでも私の中に浸透し、絶えず蠢いた。そして何より、永遠に失ってしまうだろう「事実」を与え、永久に何も還さない「事実」として禍根を残してしまうことに、私は抵抗したのだろう。他者を傷つけたくない、などというような概念でもなければ、私が死にたくない、というような心情でもなく、ただ単に、ここで「死」という形で自ら「事実」を選び取る「未来」に耐えられなかっただけなのだ。
ここでいう「未来」とは、個人の「時間」や「時計」のことではなく、「事実」の積み重ねとしての結果を想像する、という仮定のことである。更に言えば、「事実」に積み重ねられるようにして存在するだろう”誰か”であって、その先にある”誰か”の苦しみだ。私は、この永遠に続くかのような「現在」の苦しみが、行為するという「事実」において「未来」を永劫傷つけることを許容できなかった、という過去が私の中に存在するだけである。「事実」において「未来」を永劫傷つけること――それは未来を操作するという「力(powor)」としての証でもあるが、もしそれを選び取る人がいるとすれば、それは「未来」を信じられない場合なのだろう。もし「生」から「死」を覗き込むとすれば、それが「未来」において「生」が存在しない――「生」が未来で既に「死」によって押し潰されている場合である。もしこれを「生」としての未来を信じられるようになるには「状況」を少しずつ変えていこうとする遅々とする歩みが必要であり、そこには膨大なエネルギーが必要となる。
「死」とは<私>という存在において未来がないということだ。しかし、「生」ということも<私>という存在において、実のところ未来がないことでもある。
いつかは死んでしまう、ということは、何も残さないことではないし、また、生きているということも、何も残さないことではないと私は思う。必ず何かに傷を残し、何かに禍根を残し、それでも「力」は誰かへと譲渡されて、未来は続いている。
私が知らない場所で、未来はこの先も続いている。

*1:狂気が根底にあるが、そこから逃れようとする力が生であると捉えている。

*2:正気が共有されることで、狂気が否定される。

*3:正気が共有され、狂気が否定されることによって必然的に生み出される逸脱。