倫理・脳 / 他者

これらのエントリを拝見していて、論点となるArisanさんの共感する力は「能力」か?にある「感受力」、またsivadさんの倫理の根源は想像力にあると思うにある「想像力」は同質のものとして捉えてもいい、と判断しました。しかし、私は「力」というものではなくて「性質」である、と考えているので「性」という言葉を使います。
ここでいう「感受性・想像力」という前提を、私は「他者の感情と思考をより正確に類推できること」「他者の苦痛を自分の事として、それが過ぎればそれが事実として感じること」と捉えて考えています。
それとは分別して、倫理的責任を追及されたときに感覚される捉え方として、「なんとなく重苦しさ」と感じる人と「責任をどこまでも背負う重苦しさ」と感じる人がいる。また、「なんとなく重苦しさ」と感じる人にとっても、やはり「倫理的責任を問われる」ことは「重苦しさ」以上に何かを背負うものはあり、それらを言葉で説明できない事で、そのまま「なんとなく」を背負ったままでいるという可能性も考えられます。「倫理的責任を問う」――それだけで終わってしまい、答えは無限の選択肢の中に放り込まれてしまう。

ただ、実際には「感じる人」「感じない人」というのは単純に区別できるものではなく、状況や環境、時期や体調によっても変わるものです。

赤の女王とお茶を - 真実と倫理と責任と。

微妙な体調のブレというものもおそらくありますが、器質的な側面というものも大きいと考えています。仮に、「想像力」という言葉をもしあてはめるとすれば、それは器質的な箇所が想定されます。他者が今重苦しさを感じていそうだ、という感覚を覚えるには、ミラーニューロンによって「他者感情」が想定される必要がある。重苦しさ、というものが「倫理」を問われた時に感覚されるのも、このミラーニューロンによって感情が惹起されるからです。その「重苦しさ」をどう取り払えばいいか、というと「重苦しさ」を感じないところへ行く、もしくは「重苦しさ」を実際に行動して取り払う、ということになります。相手が恐怖を感じている場合、相対する者も同時に恐怖感情を惹起させられる。

  1. まず、それが自分と同じ、あるいは近い存在だと感じられること
  2. そして、相手の立場に自分を置いてみること
  3. さらに、その困難な状況が自分にも起こりえた、起こりうると感じること
赤の女王とお茶を - 倫理の根源は想像力にあると思う

1には「類推」が必要ですが、これはおそらく既に処理される部分でしょう。そしてその「私-他者」を繋ぐ「類推」の線が途切れていれば「関与しない」物となりうる可能性が高い。類推過程で2は処理されるでしょう。そして、ミラーニューロンが「関与したもの」として働けば、同様の感情を感じさせ状況を理解する。
まず、ここで1の問題点は「私-他者」を繋ぐ「類推」の線が途切れていないかどうか、です。目の前の「現実に有り得る逼迫感」はよりリアリティを伴って他者を感覚する。しかし「現実に有り得ない逼迫感」は「類推」において「関与しない」と判断されることもある。それが通常であろう、と考えます。それ以上をもし望む場合、「無制限の責任」に対し、個人に対する思考の負担を背負わせることになる。それならば、逆に「類推」の線を繋げばいいと考えることもできますが、結果を私なりに予測すると、どこまでも「類推」を働かせることによって脳に負担がかかり行動にうつすことが困難になる、ということが予測されます。寧ろ、「責任」を負担と感じる通常の人ほど不安感情が惹起され「動けなくなる」ものなのです。だから、「私-他者」を繋ぐ「類推」の線を「私」が感覚する、そうした主体があるだけで今は十分であろう、と私は思います。
人間は、どんな人間とも「全く関わらない」ではいられない、と私は考えています(それを越えたところに仙人があるのかもしれませんが)。ですから、そうしたいわば他者同士が何故「助け合えないのか」「応答に応じられないのか」、そこには類推を超えた「感情」が根底にあり、「恐怖・不安感情と想定されたものに相対する恐怖・不安感情」そのものを退ける為であろうと推測しています。「切断」し切り替えるのは、そうした「暴走」によって負荷がかかることを制御しているからです。

真実を避けて通るわけにはいかない人が、当の困難に直面する人たち、そこで苦しむ人たちの中にいるのだ。これは、私たちが知らないというだけでなく、本人達にさえ自覚されていないこともあるように思える。

真実の中にしか生きられない人と共にあることは可能か - モジモジ君のブログ。みたいな。

この『本人達にさえ自覚されていない』という部分は、「無自覚」「無意識」の部分にあるのだろうと考えています。

脳のなかの倫理―脳倫理学序説

脳のなかの倫理―脳倫理学序説

この本はまだ読んでいないのですが、大脳生理学の見地への収斂先として、この脳の器質的側面は避けて通る事はできないでしょう。また、そこを通してから逆に、倫理学への位相もよりしやすくなるのではないかと考えています。
mojimojiさんの「応答責任」という言葉についても、私は「私-他者」と相対する中で、応答するには人間としてどの程度の「限界」が存在するのか、ということも視野に入れなければならないと考えています。
「応答責任」は「応答すべき責任」ではなく「応答したという結果・事実をひきうける責任」と捉えるほうがいいのかもしれません。赤ん坊の例を引き合いに出しますが、赤ん坊が「泣き止む」「成長する」「怒る」という様々に想定される結果を理解した上で、「応答」し、その「結果」「結末」を受け入れる。「応答責任」に対しては、そうした考えが思い浮かびました。
「助けて」という「状況」であっても「助けて」と叫ぶことが出来ない、そもそも「苦痛」の中にいながら「助けて」という単純な言葉すら吐き出せない人間も存在します。また――逆に、誰かを「助けたい」と考えても、仮にそれが「私を殺す」場合、助けようと動く事はできるのか。誰かの苦しみを想像していながら、距離や物理的、金銭の部分も含めて考えてみれば、それを実行した場合やはり「私を殺す」ものではないか――人は言葉の上で生きて居るのではなく、言葉を通じて他者との異質性をフラットなものとし通じ合いながらも、それでも、それぞれの個別性を生きている。
私にとっての「生」の苦しみとは「葛藤」にあると考えています。「死にそう」であるという事実と「葛藤」は重なることが多い。だから、その葛藤がどこにあるかを、私はまず探る。「話が通じない」「生活がうまくいかない」という葛藤であったり、「他人とうまくいかない」という葛藤であったりする。それは言葉や仕草を観察する事でようやく見えて、私の眼前に現れる泡のようなものです。まず、私が「助ける」という場面を想像する他者は、「状況に諦観して過ごす人々」「現状に葛藤し心身的に限界に達そうとしている人々」の二者に分けられます。前者には後者の「葛藤」という場面へ導く必要があるかどうか、後者は、実際に葛藤しそこから抜け出そうとしているかどうか、が問われると考えています。ここで言う「状況」というのは、生活と生活の葛藤でもあれば、生活と心理の葛藤でもあり、心理と心理の葛藤でもあります。

むしろ、倫理があるからシミュレートする能力も生まれてきうるんじゃないか

倫理の根源は呼びかけにある - モジモジ君のブログ。みたいな。

とmojimojiさんは仰いますが、私は、「助ける」という心理が働く「状況」というものは「私でなければ、この人は救えない」という直感のようなものであろう、と考えています。「今、ここにある危機」と言い換えることも出来るかもしれません。誰かが「助けて欲しい」という声に出すわけでもなく、ただ「苦しい」という状態、状況、とりまく空気――それらが当事者に被さっている。その圧迫された状態の中、「苦しい」という声は相容れないと感じ声を噤み耳を塞ぐこともあれば、訴える形で苦痛を誰にでも伝わるような形で、自らの力で可能な限り伝えようとすることもある。「助けて」という声がなくとも、そこに「応答」する力は何かしら働き、それを覗き込んだ私はその「対象」を「助けられない」という事実に絶望してしまう。それを知覚して尚、歩み寄る状況というものを人の中に創ることができるか、というところにこそ「倫理」が存在するのだろうと考えています。
そこに存在するのは、常に私の常識が通用しない他者です。「他者」とは決まったものではない。私は、「他者」というものを、「私の暗闇」を見詰めようとする私自身だと考えていて、その「暗闇」を無いものと扱えば、同時に「他者」は存在しなくなってしまう。私にとっての「他者」とは「私の背中」のようなものである、と――。