危険域α/発話前・後の二重性

感情を伴った形式を使用するメタファー(metaphor)というのはアイロニーとして「感情を伴わない」可能性を除外する危険性があります。その危険域帯を狭くしていくには、「しない」という0の可能性を拾いあげることが重要となってきます。また、0にも、0と1があり、更に1の中にも0となる可能性は包含されています。その可能性を極力想起した上で「感情」を想定することは有効ですが、0と1の0を除外したまま放てば、0からの反撥は避けられません。また、何故0という現象が引き起こされたのか、そうした「引き起こしてしまった現象」から覗き込み、省察することも重要であろう、と考えられます。
発話する直前には、既に発話前と発話後が形成されています。この発話に対しての条件の掘り下げとは、「発話前によって思考される”0”」と仮定し、発話後は「起こってしまった後の無限の”1”」と仮定します。また、0と1の条件はそれぞれ織り重なっていますが、「0内で想定されず、よって1内に危険性を伴う状況」を「危険域α」と仮定します。そして、1で起こったことは、0の予測から掘り下げ、危険率αを下げた後に起こった危険域αの事実*1として決定され、その事実自体が1への分岐点となり他者によって1の可能性が渡され、連続して変更されていきます。
これらは他者が受け取る認識の内、「偶然性」という、「私とは違う」という概念を取り払った状態での仮定です。もし誰もが「私とは違う」という偶然を認識すれば、危険域αも想定されません。「必然性」を想定させることは「私と同じ」という同定される判断が伴って初めて生じる危険域αであり、危険域αとは事実として認識されない危険性がある性質を持っている、ということです。つまり、危険域αはこのことにより、0内部に留まり片側に存在する状態と仮定されます。
事実は「偶然」と「蓋然」を同時に内包しているものと捉えていますが、「偶然」を「蓋然」的なものと捉え、アイロニーとして存在する私的領域を公的なものへと拡散することによって「偶然」と「蓋然」は分断されます。その時点で、危険域αは「蓋然」を伴いながら「偶然」と認識される状況へと変更されていく。最も危険域αを引き下げられる状況とは、危険域αの存在を「事実」として認識すること、また蓋然から偶然へのメタファー使用だろうと考えられます。*2
危険域αとは「他者」のことでもあり、また<私>のことでもある。「他者=私」という「他者・私」の距離が存在する、ということを前提とします。
<私>自身の危険域αを述べることは、「他者」を同時に分解するということです。その分解に「耐える」ことによって他者をうまく取り込みますが、それに「耐えられない」場合は攻撃反応、もしくは痛みを回避する防衛によってそれを<私>ではない方角にぶつけるようになる。「耐える」ことを放棄した場合、<私>に、「私とは違う」という認識が生まれ、危険域αは事実として認識されることのない状態となります。危険域αとは「空洞」であり、危険域αを「私とは違うが、想定内の幻想」と捉え「他者」を<私>と捉えるのではなく、「他者化」するほど<私>の危険域α内部は膨張し、「他者」と<私>の重なりが解離するほど、常に痛みは遠ざかり、痛みそのものは「耐え切れない」ことを訴え続けるがその声は「聞こえない」。
他者は「事実」として認識される事の無い空虚へと放り投げられ続け、そのトラッシュボックスが限界に達すると、身体的な反応として様々な病的な状態を示すようになります。また、トラッシュボックス化された「他者」もそれによって、様々な精神的・身体的な反応を示すようになる。
少なくとも、思考によって拾い上げたものを発話した時点で「他者」をトラッシュボックス化しているのですが、「他者」と<私>の相対的距離の長さによって、危険域αは大きくなり、その距離によって分断されたまとまりは相対した距離を認識することによって自己内部に認識の位相を形成する――また、そうなるように自己成就予言を形成させます。「0内で想定されず、よって1内に危険性を伴う状況」とは、つまり、「自己=他者」そのものから「他者/自己=自己」という、自己内部が他者を飲み込み、「自己」は「自己」、「他者」は「他者」と自己完結性へ移行する状況のことを指します。
また、この「解離」自体は、痛みを回避するために必要な場合も存在します。

*1:発話という事実を想定した危険域αから、発話した後に拡がり発生する可能性は想定することはできない。”している”と見做すことによって0の可能性は全て1に包含され、1から連なる退行の危険性がある。

*2:危険域αが事実となった場合、そこをどうフォローしていくか、ということが重要だとも思っています。