言葉の生成/価値判断

仮に「空気」が場そのものから感情を抽出したものとするなら、「空気」はそれ自体を知覚し行為した当人にしか知りえない個人差を伴った感情の喚起なのだろうと考えている。そこから、さまざまな価値判断による「空気」が動いていき、ログとして残っていく。
「価値判断」を伴った言葉の問題が、仮に受け取る側を重視した問題なのであれば、それは「言葉を放った側の問題」という括りではなく「言葉を受けた側の問題」となる。少なくとも放った側が「言葉を放った/放っていない」という認識にかかわらず諸問題は発生する。*1
その上で「価値判断」を定義するならば、他者からの可変性や介入が存在する上、主観的評価としての言葉であれば、やはり明確な定義で言葉を明確な形で使用できるわけではない。「言葉を受けた」と感じるからこそ言葉が浮き上がってくるのであって、そうした言葉でボーダーラインの線引きが定義可能な言説や事実がそこに、明確に存在するというわけではないのだろう。しかしどれを述べるにしても、この「問題」は「受け手」を中心に考える限り、浮き上がってくるのだろうと思う。ここでもう一度立ち返って考えてみれば、使用する理由は、やはり「受けた」という受動的な言葉の受け入れから端を発するものではないかと思う。
放った言葉から受けた言葉が「受け入れられないもの」と感じられることがある。「受け入れられない」という事態において、同時に当事者となる。また、当事者以外に「受け入れられないもの」という評価があるとすれば、それは第三者が個人やルールから外れたものを「受け入れられないもの」と呼んでいることになるのだろう。そして、これらは「受け入れられないもの」である、と定義することで解決するものではないのではないか、とも思う。
「信頼関係」の成立や、批判を行うための合意ルールの形成、前提とする認識の掘り進めによる対話を行わなかった/行えなかった/何らかの事情が立ちふさがっていたことから、諸問題は発生していると考えられる。「記述」を重視するのか、「スタンス」を重視するのか、「ルール」を重視するのか、「人格」や「感情」を重視するのかでも、認識の齟齬は生まれる。何らかのスタンスを「明言する」などの言質をとることなく、相互でスタンスの理解ができれば、それ自体で他者同士の理解と信頼関係は結ばれているのであり、齟齬の解消はスムーズに進むのだろう。
また、「過去同様の価値判断をしていたために、そのような価値判断に及んだのではないか」という推測は、その推測が当事者にとって「事実」であるということが明示されない限り、第三者がそれを事実とすることは出来ないのではないだろうかと思っている。これは憶測ではあるけれども、「原因/理由」を明示しない「価値判断」において、当事者は「原因/理由」を知りたいと思うことで「理解」にいたりたいということが多く、関わろうとするのではないだろうかと思う。
「他者」に対して何らかの「価値判断」を行っているということは、その「価値判断」は間違っている可能性も同時にある、ということでもある。それぞれの立場に、徹底的なズレが存在する場合、どれくらい「納得」できるということに落ち着くか、どれだけ「納得」できる姿勢を提示できるかにあるのかもしれない。
修正。タイミングが悪く、一般的な論を展開したとしても外部からはそう理解されない、というかタイミングとして難しいことだったのかもしれない。少なくとも「場」という概念が、私は「正しい」とも「間違っている」とも、結論付けられていないことに対して論拠を考えて行きたいと考えている。

*1:言葉を放った側と「言葉を受けた側は逆説としても成り立つ。