Security hole hacking - 2


 真実をウソ<虚構>とし、ウソ<贋作>を真実とし、ウソ<贋作>をウソ<虚構>とする。
 虚無は怪物を誘き寄せ、怪物は虚無を誘う。
 コエは放置され、ジジツは仮託し放逐される。
 街路樹から木漏れ日が差し込む。じりじりと肌に焼きつく日差しから逃れるようにして、背の低い少女と、薄手のスーツを着た髪の長い女性が街路樹の木陰に佇んでいる。少女――アインは少年が着用するような、動作性を重視したオレンジのパーカーと、濃緑のポケットが多く付いた幅広のキュロットを履いている。肩までかかった栗色の髪を纏め上げ目深に被ったつばの付いた帽子を右手で取り出す。額には汗の玉が伝い、前髪が水分で湿っていた。アインは額の汗をポケットから取り出したタオル地のハンカチで拭い、帽子を被りなおした。
 セミが一斉に鳴き始める。風は汗を乾かさず、ただ汗として滴り落ちていく。ビルの遠方から、喧しい騒音、音楽、コエが響き渡り、振動となって空気を伝う。その無意味な音に、髪の長い女性――理子は耳を塞ぎそうになる。その衝動から、ポケットにあるイヤホンを取り出し耳元に当てた。周囲の雑音は、次第に静かで情緒あるアイルの曲へと意識が集中していく。騒音は消え、流れるリズムのある曲が脳髄に流れ込む。
 白いシャツに汗が滲む。クーラーの効く部屋で落ち着きたい、と理子は思い、木の幹にもたれかかっているアインに視線を移した。アインは手にアイスのカップを持っている。ストロベリー味、という赤い色をしたアイスクリームを木の匙で掘り、静かに口に持っていく。
「ねえ、中に入らない? 暑くてしょうがないんだけど」
「うーん……」
 アインは悩ましげな顔を見せ、アイスの赤い色を覗き込んだ。
「ああ、これもダメか――」
「?」
「うん、ただ、この赤い色が苦手なだけだよ。もっと自然な色、造形としてのピンクではなく、もっと生生しい色が好きなんだ」
「ああ、そうじゃなくってね……暑いから、クーラーがきいたところに入りたい。どう? ココじゃなくってあの前の喫茶店入らない?」
 まあ、こんな感じで手なづけなければならない彼女の無秩序ともいえる言動は、理子の手を焼かせていた。理子自身、このコは手に余ると考えたこともある。理子にとって、彼女はひたすらに「理解できない異物」でしかないからだ。
 理子は、これまで周囲の人間を「理解できる」と考えていた。コエとなって、周囲の意図や思考が理子には伝播していく。それら意図は悪意でも苦痛でもない。
 殺意だ。
 世界には殺意、それも微小な殺意があふれている。理子はそれをシャットアウトしなければならなかった。意図を読まず、ただ言葉の表面的な意味だけを感覚し、それらに応じて行動をしていく。それは誰かの言葉の通りに行動するというものでしかないが、周囲のコエ――本来のシャウトを遮断するためには、そうするしかなかった。そうでなければ、理子自身殺意そのものに染まっていただろう。
けれども、アインにはそれが「無」い。比較的落ち着く、というより、理子とアインは似たもの同士なのかもしれない、と理子は最近気づいた。
「わかった――じゃあ、入るよ」
 アインはレンガの舗道を横切り、目の前にある喫茶店の扉の中をくぐる。理子もそれに続くように扉をくぐった。クーラーの効いた店内の風が突然理子の身体を包む。はじめは快適だが、後々寒くなるかもしれないような設定温度だ、と理子は思う。
「コーヒーひとつと、塩アイスひとつ」
 はい、と店内にいたウェイトレスが会釈する。アインは早々に、窓辺に近い場所に席を陣取り座っていた。「あのコのところに」とウェイトレスに声を掛けた後、理子は外を眺めているアインと相席した。
 理子は耳元につけていたイヤホンを外した。店内のクラシックが流れ、木製の部屋の色と空調はカントリー風の雰囲気によって気持ちが安らいていく。外の騒音と隔てられた店内から見た景色は、熱せられた水蒸気で空気が霞んで見えた。
「ゲームはどう――やる気になった?」
「ホリュウ中」
「前もそういって、断ったじゃない」
「断った、わけじゃない。迷ってるだけだ」
 理子はここでおや、と訝しげにアインの表情を観た。
「迷ってる、ってなんで」
「なんともいえない。ゲームというのがなんとも如何わしいじゃないか。断るに十分すぎる――たやすく話に乗ってはいけないな、とそう感じたわけだ」
「たやすく、とかそういう問題かな。まあ、アインにとってはそうなんだろうけど、私にとってはアインが参加してくれた方がいいのよ。これにはあなたの<知覚>が必要なの」
 ゲームとは、いわゆる「仮構世界でのゲーム」ではなく、「ゲームにより、ゲームを体感する」というようなものでもなく、「ゲームを体感する、ということ自体のゲーム性を体感する」というものだ。端的に言えば、「大きな物語」といった目的がこのゲームには存在するのだろうと理子は推測しているが、実際のところは分からない。理子はそう”推測している”というだけであって、その推測すらも予測されたデータの中に存在しているのだとすれば、何を推測したとしても、「ワタシは推測した、と推測した……」とした無限メタとなり、結局――<私>という存在以外の何者でもないことに、辿り着かざるを得ない。
 ある意味恐怖でもある。それは、私自身の物語も呑み込まれるという可能性がある、ということだ。人間の物語は個別に存在するが、時間変移、虚構仮託、最終的な目的、ストレスとその感情強弱の頻度と開放によって決定付けられている。それらが一つのまとまりとして扱われてしまう「物語」だ。
「そう――全てがゲーム内容という決定的な位置にある。誤謬もズレも差異も距離も、実際の世界と同一として直接データが組み込まれている」
 理子は封書として、区内の消印から送られてきた説明書を読み上げる。
「そのいち、”虚無というエネルギーの枯渇した集合体を分解すること”――これ、ゲーム説明書に書いてあるけれど……」
「うん、たぶんそれもデータの中にあるものだよ」
 説明書にはいくつか「目的」が箇条書きに書かれている。そして、それらゲームに参加する旨と、返答用に使用する封筒、サインと捺印の紙が同封されていた。ただ、それだけではある。それでも、理子がこの手紙を信用したのには理由がある。
「タスケテ――というコエ」
「ええ」
 まあ、聞いてしまったものは仕方が無い。聞いてしまったからには、それを無視すると逆にそれが強烈な罪悪感とともに襲い掛かり、死にそうになる。多くは、それら罪悪感そのものを記憶という無意識、海馬や偏頭体などの視覚、聴覚、触覚を通して<忘却>するが、理子にはそれが出来ない。罪悪感という封印は通常の世界でも常に視えているものなのだ。だから叫び<シャウト>は遮断されるが、ふと気を抜いた瞬間、波となって怒涛のようにそれらは押し寄せる。
「それはともかくとして、アインは何を目的にするのよ? これには、参加資格として<目的>を書きましょうとある。12個の項目と、13番目に自由に書く欄があるんだけど――まあ、やらないならいいんだけどね」
「<目的>? ああ、それは生きるのに必要だから、に過ぎないよ。目的は複数、また他者の数によっていくつでも存在する。ひとつだけしか目的がない、というのならばそれこそ――」
 虚無という穴に近づいていくな、とアインは溜息を吐き、ゲーム内容についての説明を一蹴する。これは、ゲーム主催者も予測していたことではあるのだろうが、彼女にはこの事態を推測は出来ても、行動に移すことは出来ない。なぜかというと、このゲームは遂行が全て「椅子」の上で展開されるものだからだ。
 そう話している内に、先ほど注文したものが、先ほど頼んだウェイトレスの手で運ばれてきた。アルミ盆の上にはコーヒーと塩アイスが乗っている。この塩アイスにコーヒーをかけたらどんな味なのかしらん、と理子は思う。理子の前にはコーヒーカップとスプーン、アインの前には塩アイスにアプリコットのコンフィチュールがかけられ、上にはミントが飾られていた。
「塩アイスか……塩が甘いのか、そう知覚するわたしがそれを甘いと断定しているのか……」
「おとなしく食べればいいのに」
「理子は塩アイスのようだ、と――そう思っていた。塩もコンフィチュールも、ミントも、それぞれが色彩としては統一されているけれども、味を確かめると、塩という成分がもっとも引き立つ。その味が全てを象っている」
 アインは他者の感情をアイスで言い当てる。ただ、自分自身のコトはわからないらしい。そのアイスとの微分によって、アイン自身は決定される。この、目の前に居るアインは、理子という人間にとってのアインであって、また別の人間であれば、別のアインに変換されるのだ。そして、それはアイスという味となって具現する。
「塩――NaClね」
理子はつぶやくようにそう言葉にすると、湯気の立つコーヒーに口をつけた。
「塩は思考や意識を形作る、ということ?」
「それだけじゃない――まあ、意識を思考として取り込むには、塩を結晶とする、結晶を結晶のままとりこむ、ということかもな。そう思うだけだ。私は感情から味が想起されるが、想起された味から感情そのものを理解することは出来ない。なぜなら、想起とは私のモノではないからだ」
 しゃくり、とコンフィチュールのかかった塩アイスを、アインは口に含む。
「わたしは主催者の理由や意図など、実のところどうでもいいと考えている。興味があるのは、そこから影響した行為による事実だけだ――理由など、自らの中に作り上げていくものでしかない。応えられることと、そうではないことがあるからだ。黙秘権、とはそういうもののためにあると私は思っているよ。仮に”答えられない”ということがあったとしても、それは事実に対する理由を隠蔽したいのではない、ただそれを探しても見つからないから――ズレがそのまま生じているからだ。
 理子が聞いた、そのコエはあるのだろう。ただ、それは反響音とした怪物となって少しずつ手渡される塩のようなもの。”塩の結晶”となった塊を、理子は聞いているのかもしれない」
 それは――ある意味核心を突いた言葉だった。ずきり、と後頭部が痛む。
「”自我と解離した物語”によって他者への想像力は殺がれていく。自己の中で終始する他者への嫌悪と自己を自己と見做さない――要するに、完全なる自我を得たいという欲望と完全なる自我ではないという心的外傷によって断ち切られる<現在の自己>。”自我と解離した物語”とは――心的外傷から内部を圧迫する囁きのようなものだ。それは放置され、膿の様に自己を苛みながら、個体にとって極度のストレス下におかれたとき発現する。仮に、あなたは<いけないこと>を言っている、といえば、それだけで<いけないこと>を言っている――というそのものを自分自身が体現していることになる。なぜなら<いけないこと>とは、それ自身が<いけないこと>として認識している、という所作になる。<いけないこと>という概念が組み込まれていないモノからすれば、何故いけないことであるのかがわからない。けれども、実際はわかりやすい構造を描いている。<いけないこと>を、<いけないこと>としたいからだ。そうする必要があるからなんだよ。鏡像は向かい合わない――それぞれは、互いに食い違いズレとなり、逢着は摩擦を引き起こす。
 だが、その<いけないこと>は過去侵された心的外傷そのものなんだ。だから――本来ならば誰もその心的外傷を責めることはできない。責めるということは、”今も実際に責められている”ということだ。そして、それに加わることに罪悪感を持っている、ということなんだよ。それが”事実”かそうでないかということに関わらず――罪悪感を持つよう認識している、またはそう責められている、ということ――そしてそれが何者にも癒されない、癒されていないことによって生じる”自責”だよ。それはただのユメだ。ユメだからこそ、誰も責められない――それは誰にも責めることはできない。そんなことは赦されない。だが”他責”と成った瞬間、それは虚構に仮託し、事実を放逐し声として現出したそのものを放置した後虚構として再度仮託することと同値となる。
 でも――何も出来ない、だから<いけないこと>という罪悪という怨嗟を伴った感情は理解し手放すこともできる。そこから可能性と、不可能性の中に在る”全て”の可能性の<穴>は視えるんだよ。だが――<いけないこと>と刷り込まれ、<いけないこと>というそのものを実行し続けることで、穴は<いけないこと>に改竄されモルタルの壁として塗りたくられる。<不可能性の穴>を発見する力は<私>を抹消することで可能となり、ハッキングは、その効果をゼロにすることで圧力を無に変更することができる――」
 意識とは、「目の前の事物を知覚する」ことと「それ自体が知覚されること」の境界から発生する。その深層から自律的に検索実行されるものが沈潜した無意識だ。無意識とは、いわゆるユメではあるが、脳の中ではプライミング効果を誘発するよう常に賦活している。人間の脳が少ししか使われていない、なんてことはない。使われていないならば、脳の中にあるエネルギー供給の枯渇によって、シナプスは淘汰され削られるだけだ。ただ、少量のエネルギーしか使用されない箇所が多いというだけなのだろう。
 自由とは、同時に自由という物語を楽しんでいるに過ぎないが、お互いの個別データの認識の微分精度と差異区分データはタイムトライアルとして流動性の在る断片として――「差異」は微分される。その曖昧な差異の微分は、最終的に”狩り”として、首尾一貫した物語は無という解体へと、収束を迎えるだろう。
「真実をウソ<虚構>とするのはいい、ウソ<贋作>とするのはいい。問題なのは――ウソ<贋作>をウソ<虚構>としてしまうことだ。そうすることによって内在化されたコエと分離し、解離し続け、<それ自身>は物語の中へと吸収され、<私>は、次第にコエそのものという虚無と成るのだろう――理子が聞いたそのコエは、虚無という変移し、移動していくものでもあるため、実態がつかめない。虚無は怪物という存在に付着し、怪物は虚無へと遷移を行う」
 しかし、確実に増殖はしているが――とアインはつぶやく。
 気付かないまま「虚無」という意識を埋め込まれること、また、それ自体が、他者の状況を「知らない」ゆえに――他者に「恐怖」や「不安」を惹起され、その「虚無」が何故自分に起こったのかも自覚することはできない。「恐怖」を「人」と結びつけ、「怪物」として認識するようになってしまえば、何が何を生み出し、誰が何を助け、何を怪物化したかということが、乱雑し無秩序となってしまった状態では根源を分析することができなくなる。
「主催者が求めた答えも、ココに到達するはずだ」
 アインは融けかかったアイスの残りをスプーンで掬い上げ呑みこんだ。
「幻想に介入する魔女サンは、さてどうするの?」
「目的――アカシックレコードへの介入――」