カルネアデスの板

私は国内情勢にも、国際情勢にも疎い側面があるので勉強したいと感じているが、やはり右翼、左翼と言われるとどうも「?」となってしまうのだ。それぞれ立場は存在するけれど、その中にいる人間の心や思考はそれぞれ違うはずで、行動様式も同一ではありえない。だからこういうとき、右翼とは、右翼だと周囲が認識し、それに対して評価を下している対象であり、左翼についてもまた然り、という考え方にしている。色々な見識や見聞を理解したいのだが、それは今後の課題。
これは私も以前から感じていた事なのだけど、日本のとる政策や意識って、既に逃亡体勢に入ってるなと。必死に周辺から耳を閉ざし、痛みに耐えるというより声に背中を向けているような。それは対外国からくる圧力に対してジャブを入れるような抵抗であったり、また睨みつけて対峙する姿勢を見せながらも足元はじりじりと後ずさっているような印象だったりする。
その後ずさっている人達は、出来るだけ資金を集めて力を蓄え安堵することを目的とし、資源が制限される中、「どれだけ自分が今後生き残ることのできるかという保障パーセンテージを高くすることができるか」ということに執着してしまう。だからこそ、誰もが「自分が安心できる環境であればいいのに」という思いがあることを忘れがちになる。不安を排除したいと言う考えが、安心できる状態をつくろうという考え(戦争は、もう自滅という最後が見えているから、選択肢としては最後の最後だろう)を上回っているほど「切実」な、何かに見捨てられるかもしれないという不安な心理状態を、誰もが感じ取っていたり抱いているって事が問題なのだと思う。
土地の資源――というか、地球自体の資源が有限だから、それを消費しながらも有効に利用できる人口はとうの昔に閾値を超えているのかもしれない。周囲の隅々にまで資源を行き渡らせる努力を怠り始めたこともあるのだろうけれど、そもそも取引する等価な資源がガス欠状態にあり、全身に血がめぐらなくなったのだと感じられる。そのように明らかな症状として現れてしまえば、時間が経つ事によって治療が可能な病気だろうと、即時性を求める限り「もう、切取るしかないよ」になってしまう。
カルネアデスの板、というのがあるが、今例えている「有限の資源」はまさにそれで、「有限の資源」からあぶれてしまうかもしれない人は「有限の資源を何故渡さないのか」と問う。ないのだ、と言っても「ないという証拠は無い」という悪魔の証明になってしまい、互いが証明の迷路で証明しようと努力し続けていれば、最終的には共倒れになってしまうだろう。だからこそ、共倒れはまっぴらごめんだ、と互いに牽制している後ろで逃げる道筋を作っているのだ。だからといって、逃げた人達を卑怯だと罵ることはできない。それは、自己生存という形にあらわされる本能的なものであり、誰だって沈む船からは逃げ出したい。
資源を巡ってあぶれた人達は、そうなってしまう状況を怨むだろう。絶望するかもしれない。もしくは、忘れようと夢の中に逃げ込むかもしれない。正面から槍を指される一瞬だけ痛いなら、そのほうがいい。船底を一生懸命水が洩れないようにしている人達に「おまえがやったのか、責任取れ」と緊急避難時にいう声もあるかもしれない。それがより攻撃的になれば、ますます場は混乱するだろう。もし、弱者と叫ぶ人間が他人を省みず我先にと乗り込もうと他人を押しどけてボートに乗ることができたとしても、「止むを得ない状況で生き残った」にも関わらず、生きて居る限り犠牲になった人間の十字架を背負うことになる。罪悪感を感じなかったら意味が無い、というかもしれない。けれど、たとえそこに罪悪感を感じない人間が生き残ったとしても、何かを奪った上でのものに、幸せを自ら築いていく力はないし、その方法も知らない。それは、元々弱者であったものだろうと、強者であったものだろうと同じ事だ。
例えば、もし私が弱者であったとしても「これまで私がうけた痛みを、悲しみを痛みで知るがいい」とはできないだろう。このあたりは説明できないのだけれど、「他者を理解したいかそうでないか」に違いがあるのではないか。本能に根付く無償の愛情のように解釈できる根源的なものが「他者の理解」に繋がると思っている。そして、それは訴えて獲得するものではなくて、初めからある感情や好奇心だと。
もし、「訴えなければ利益は返って来ない」とインプットされたまま、欲求を訴えても返ってこなかった場合、それがそっくりそのまま相手の憎悪へと転化してしまう。それは、自分ではどうにもできない感情みたいなものなのだろう。憎悪を育てたのは、間違いなく周囲であって社会だ。そして、そのどうしようもなく捨てることも出来ない土台となった思考を解決するのは、周囲の環境と運によって初めて成り立つものだと思っている。ただ煽ったり、囃し立てたり、そんな形では、根本的な本当に求めているものの解決には至らないという困難さが厳然としてあるのだけれど。
「気付く」というのは非常に困難なことだ。絶望の中から何かないか、と探してもひとつの欠片すら見つからない。どれも他人に欠片を潰されていたり、融かされていたり、奪われていたり、そんな不完全なものを他人が持っていくのを傍目で見たりしなくてはならない。自分が存在することは当り前なのに、それに気付くのが難しいなんて、笑い話にもならない。
タイタニックの船底から徐々に水が這い上がってくる状況の中だとするのならば、一体私はどんな覚悟をとればいいのだろう。最も記憶に残った場所に行き、合流した家族と共に水がやってくるのを待つようなタイプだと分析しているが、自分なりの正義で戦ってはいる。その正義は、目に見えたような成功談でもなければ、誰かを罵倒してすませるものでもないし、誰かの目に見えるかたちで「行為」することでもない。ただ意識を変え、理解しようとするまなざしで世界をただみつめるだけのことに過ぎない。それだけでも、180度視界が逆転してしまう現象が起こることもある。