タフ

このような「世間」に対して個人は、その辛さや悲しみを美に転化してリアリティをすりかえるしかない。そして、このような生存の美学を、「世間を泳ぐ」生活技能に織り込みつつ「タフ」になり、その「タフ」になるということ自体を美学的に自負することで現実の惨めさを否認する。個人は、このようなすりかえの迷宮を生きるしかなくなる。実はこの「タフ」の自負が、「いじめ」られる者は情けないからいけないのだとか、「いじめ」られた者は今度は強くなって「いじめ」る側になればいいという、「世間」の美学=倫理秩序を支えている。実際、「いじめ」をする者の多くは、この「タフ」の美学を生きている。彼らは、自分を痛めつけた嗜虐者が「タフ」の美学を教えてくれたというふうに体験加工する代わりに、「タフ」になれない「情けない」者には「むかつい」てしまい、攻撃せざるを得ない。

いじめ・全能感・世間 - 内藤朝雄HP −いじめと現代社会BLOG−

そうそう、これだ。未だに体育会系で蔓延る悪しき風習もまだこの轍が残ってる。しかも、「これこそ日本文化」のようなところでこそ根っこの核から広がるように蔓延している。周囲がその暴力に諦めて「この暴力は当然のことだ」と心の底から思うようになり、その風習に身を置くようになった瞬間、多分、自分の過去を正当化する道を生涯をかけて歩み始めるのだと思う。
私が途中で部活動をやめた原因も、そうなってしまうかもしれない私を想像し、それが余りにも怖ろしい光景だったから、という理由からだった。想像するだけで気が狂いそうなのに、平気そうにしている人がいることが信じられなかった。平気ではないのかもしれないが、私はそんな風にはなれない、と思った。だから、「諦めない」ために、せめてものささやかな抵抗として「辞めた」のだ。
周囲には「なぜやめるのだろう、後輩に対して権力が握れるのに」という疑問が浮かんでいたようにも思うが、決して私をひきとめようとはしなかった。彼らも「やめたい」と思いながら、そういった「過去の惨めでかわいそうな自分を正しかったのだとでも思わなければ、余りにも無駄で無意味な今生きて居る自分」が明るみに出てしまうことを恐れ、やめることができなかったのだろうと思う。私と同学年の人達も同じ歴史を辿るようにして、「これから何をしてしまうのか、しなくてはならないのか」ということを予見していながら、やめることができなかった。「一度入ればやめられなくなる」と最初に言われた言葉は、こういった心理状態の事をおおよそ指しているのだろう。

「世間」の辛さや悲しみを美にすりかえる傾向は、実は前述の欠如からの全能感希求の一局面である。つまり、認知情動図式をいったん漠然化し、あらゆる具体的で多彩な惨めさや苦しみを単色の全能感希求にすりかえた上で、もう一度「世間」の美学=倫理秩序に従って全能感筋書を人々と共に生きる、というわけである。

いじめ・全能感・世間 - 内藤朝雄HP −いじめと現代社会BLOG−

でも、そういう人もいるという話なだけで、現在進行形で憎しみから生産される絶え間ない渇望を感じている人にとっては「はあ、何それ。自慢話ってことか?」ぐらいにしか感じられないくらい遠いものなのだ。だから、どんな論理的な言葉で説得しても通じない。そうやって「苦しみを越える」という途方もなく思える方法を選んで自己肯定感を得るよりも、「こんな世界なんてなくなってしまえ! そうしたら、苦しみを越える為の苦しみも、これから生産される苦しみも一掃出来る」という方法を選んだほうが効率的にすら思えてくる人がいても不思議は無い。それがどんなに短絡的な方略だろうと、自ら墓穴を掘るような方法だろうと、「今よりはいい」と思えるほどの苦痛が今現在もある。哀しみを飲み込んで糧にする方法を選ぶ事よりも、自分で自分の脳内回路を入れ替えて、苦痛を悦楽に変えていかなければ、生きる事すら難しいのだろう。それがたとえ、憎悪の再生産を育むとしても。「今」自分が抱える憎悪を転化することも、乗り越える事のどちらも、実行することすらできない環境下で苦しんでいる人の病根を少しずつでも取り除く手助けが出来たらいいのにな、ともやもやと形にならないまま考えていたりする。それがどんなものなのか、まだ全然形にならないのだけれど。