生きる事をかけて

以前カルネアデスの板 - Double Lineでも同じことを言ったけれど、考えさせられる言葉があったのでもっと考えてみよう。

そして、生き残る僕らにとっては幸運なことに、ほとんどの人が、道連れを求めるよりは、黙って逝く方を選ぶのである。

「勝ち組」からの応答──赤木論文を検討する - モジモジ君のブログ。みたいな。

それはきっと、今生きる事が出来る人に「生きて欲しい」と思ってるからだと思う。私もそうだ。親が子に望むのと同じように、ごくごく単純な感情なのだと思う。

あなたが告発したように、僕たちはあなたから尊厳を奪ったその上で、暮らしている。その上でさらに言う。残りのものをも差し出すように生きて欲しい。運動は赤木さんに何ももたらさないが、それでも、そこに身を投ずるような生き方をして欲しい。

「勝ち組」からの応答──赤木論文を検討する - モジモジ君のブログ。みたいな。

誰もが、誰かを踏みつけながら生きているのを知ってか知らずか、「生きるための労働」が希薄化した現在において尚、それでもやっぱり生きるために生きている。山林の奥にいる過疎化していく老人から、都市に生きる多くの人々が少しずつ搾取するように僅かな平穏すら奪ってしまっているように、学校教諭が子どもが生きて伸びていく時間を搾取しながら血税で金銭を貰っているように、会社に雇われたサラリーマンが、企業の生き残りをかけて労働力を搾取し精神的にも身体的にも磨耗させ疲労させられているように、僅かながら働くことの出来る人々が、僅かな労働すらも営む事もできな人達を見捨てたりするように、「働けない奴は死ね」という判子を押されるように絶望に瀕し、そうやって世界から取り残された状態のまま国や共同体にも見捨てられ誰にも知られず死んでしまう人や、イラクで死んでいる人々のニュースを見ても現実感のない感覚のまま日々を生きているように、隷属させられる国で精神と魂を売り渡された上人権を踏み躙られ国万歳と叫びながら死んでいくように、今でも、一分一秒毎に入れ替わり移り変わり死んでいるように。逆に、生まれてくる新しい命もあるように。
私達は、その間に存在する緩衝材のようなものだ。
赤木氏の言葉は、政治的なものや生活状況、クオリティ・オブ・ライフの奥底に含まれる意味も還元すれば、「死にたくはないが、こんな苦しい世界で生きていたくも無い」という心が見えてくる。私もそう思っている。
じゃあ、この世界は誰がつくったのだろう――数多くの先人達だろう。その中には愚かなものもいただろうし、賢きものながらも、愚かにならざるを得なかったものもいるだろう。そして、一生を懸命に賢さで土台を支えようとした人もいるのだろう。たとえ、名前は出ていなくても、誰にも理解されなくても。
私はいつも誰もが自分の努力を心底周囲に理解されていると思って生きて居るのかと思う。私にとっての幸福とは、彼らの幸福とはかけ離れたものだ。その幸福は、誰にも理解されないし、誰にもきっと共有すらされず、搾取され死ぬだけの幸福だろう。多分、それは赤木氏にとって最も避けたいし、誰もが幸福であるようなもの、というのを目指すのならば、私の言うような幸福ある筈が無い。けれど、周囲の人々が「自分の不幸」や「惨めさ」に気付かないままのほほんと平和に、誰かに搾取されている事も誰かを搾取している事も気付いていない事が――足元にあるアリを踏み潰すように生きながらにして生気を吸い取られ生きて居るのが、今の「幸福」だと、私は思う。
赤木氏は、こういった事実に気付いていない「平和そうな人々」「暢気そうな人々」「足元のアリに気付かない人々」の醜悪さに気付いたからこそ、今、声をあげてヘルプを出しているのだろうと思う。
私は、そういった現状を理解しながら、それでも涙を流しながら現実と向き合いたい、と思う。そういった人間がいるのは、昔も今も同じだ。他人の痛みが感じられない人間がそうやって人間の権利を掌握しているが、それを変えようと今まで人類は歴史を変えようと身じろいだんじゃないのかとも思う。その先々で鉄砲で撃たれるかもしれない、搾取されるかもしれない。けれど、今まで何億と生きてきた有象無象人間は、「自己」ではなく「自分が居たい場所」を目指して生きてきて、それが実現する事を目の当たりにする事もなかったんじゃないか。そういった希望があることを願いながらも搾取され死んでいった人のほうが大勢いるのではないか。いつかは死んでしまう。だから、そこから目を背けたい余りに働いて、家族を持って、繋がりを深めて、そうしたこじんまりとした隔絶の中で死んでいく。だが、そこに居る自分という「個」が存続し続ける事に、なんの意味があると言うのか?
今は、人間同士のリンクが途切れ、絆も途切れ途切れで、「居たい場所」を目指したとしても、リンクが途切れてどこかの山でそのまま惨めに置いていかれてしまうのかもしれない。そうして、自分が死んだ後でも死体を放置されて火葬も土葬もされず、忌み嫌われるように死ぬのかもしれない。それでも、見知らぬ誰かが涙を流してくれているかもしれない。
そして、もしかしたら、数百年後、ふとしたことで森の奥地に迷い込んだ人間が自分の手記を見て「目指していたもの」を見つけてくれるかもしれない。
そして、思うのだけれど、こうして声をあげて訴えることが「目指していたもの」を見つけてくれる確立を大幅にあげることになるんじゃないか、と思うのだ。
私が、今「存在している意味」は、そういった途方も無い「どうでもいいこと」「あるかもしれないことはないかもしれない」ようなことがその先にあることを信じて、日々をただ淡々と、繋ぐように生きている。誰も憎みたくないから、傍にいる人達と、途轍もなく奇妙なコミュニケーション能力で肩を寄せ合って波にさらわれるのを待っている。私はそこに「幸福」を感じる。
途方も無い未来が、私という「個」が死んだあとも続いているのだと信じて生きるしかない。そして、そうやって生きている「過程」にしか「幸福」はない、のだと感じている。
伝えたい事があるはずなのに、うまく言葉が見つからない。
赤木氏の「言葉」はいま成そうとする「過程」そのものなんじゃないか、と思う。その言葉が、伝えたい人に伝えられない事実に直面している最中でも、どこかで納得し、理解している人はいて、その言葉を聞いて、「よし、じゃあオレもなんとか1mmでも動いてみるか」と思って、そう思った人が少しずつ動いてバタフライ効果のようになっていくかもしれない。私は、そうした「過程」を持つ人間が好きだ。
誰もが不幸だ、ということを言っているわけじゃない。不幸が齎す個に対する苦痛は個人固有のものであって、誰とも交換可能なものじゃない。もし、苦しみ(勝ち組だろうと負け組みだろうと)が生きるうえで必然なのならば、その苦しみを与えられるのではなく、生み出すほうに変えていけないのだろうか、魂の屈従という苦痛の中にいながらにして、そうしたものを変えていきたいと、私は思っている。