思考と行為

ホームレスの人を助けなかった私 - G★RDIAS
その答えは、自分の中で考えたい。
いじめ問題にしてもそうですが、周囲にいた、見ていただけで「加担」になるのだと思い責めている人もいるのかもしれません。
「何もしなかった」「何も出来なかった」ということに罪悪感を覚える人は、多分、多く居ると思います。それにずっと囚われて自責している人もいれば、何か自分を保つ為に、生きる為に重要な事柄ではない、と思い込もうとして棘が刺さったままのように生活をしている人もいる。「欺瞞」といわれればそうなのでしょうが、「しなかった」といわれれば「生きる資格が無い」と言われてしまうように感じるのは、私がまだ過去に囚われているからなのかもしれません。
私は、家族がいるし、兄弟もいます。多分、昔からその人達の悲しむ顔を想像して、きっと「行為しなかった」こと自体を忘れてしまうでしょう。できたのに、しなかった――通り過ぎたことに「ごめんなさい」と言うでしょう。その代わり、私は生きていく、というだけで。
それが罪だ、ということなのかもしれません。そして私は、すぐ自責の念に駆られてしまいますから、なにか他のもので補おうとする。自分のためだけに動きます。ただ――自責の念を自分で舵を取り、必要だ、という感覚で察した瞬間、動くスイッチが働けばいい、と思います。
義務ですれば、「自責」も「罪悪感」も薄れます。義務なのだから「仕方のないことなのだ」と無責任に責任転嫁してしまいます。日々を過ごす人にとって、「スイッチが大事なときに働けばいいなあ」とそう思うだけなのかもしれません。行為するかしないか、それはまた違う事ですし、それをしなかったからといって、誰も責める事などできないと思います。
私は、kanjinaiさんがそう「感じた」こと、その事実だけで息が詰まります。「その事実に息を詰まらせて泣いただけで、何もしないでごめんなさい」と思います。その事実が書かれていることを「見ただけ」で何もできなくてごめんなさい、と思います。それでも他の誰かが「できたのに、何もしなかったんだね」といえば、やはり「何もしなくて、できなくてごめんなさい」としかいえないでしょう。過去は変えられないし、それに対して感じた感情を消す事ができない。けれど、それを「責める事は誰にでもできても、誰もその事実がある過去に戻すことはできない」。タイムトラベルが可能ならば、過去に戻れ! という言い方もあるのかもしれませんが、私はその可能性については「Back To the Future」の映画でたぶん答えは出ている気もします。
過去は変えられない。背負った過去が重いほど、行動してもあの過去を贖えない、陰惨で残酷な行為をした自分の記憶をそうではない行為をした自分の記憶に塗り替えたいと思う。ただ、自責の念に駆られる事は、多分、誰にでもできます。自責の念に囚われていれば、何もしなくても罪を精算した気になれる。だから、「生きる事」そのものが、おそらく私の贖いです。それは自虐や自責ではなくて、何か別の、ゆっくりした時間とか、誰かを観察する、というようなものです。
それに対して「できるのに、何でしないんだ?」と思う人もいるかもしれません。
けれど、私はそれに対して、こう返しましょう。生きていれば、何か必ず行為をする。その中で、他者に対して、よいことも、わるい事もするでしょう。一つの行為にしても、言動にしても、誰かにとって気持ちの良いものでもあれば、誰かにとって吐気のすることだったりする、どうでもいいことだったりする。できること、というのが「よいこと」なのならば、ただ生きているだけで約1/3はよいことをしていることになりますね。それが「できること」だと、私は思うだけです。
これは筆者の「自責の念」というものが行為に関与するのかどうか? といった疑問から発するものだと思いました。ただこういった、言葉で自責の念を感じる人が更に増える事が私は辛いので問いに答えたのですが、それは実は関係なくて、ただご自分の「問い」を無自覚に問うてみただけ、なのかもしれませんね。一体どういった「意図」で問われているのか、というのが明確にされずに、「生死」を述べているところに違和感を覚えます。自分の意見を述べずに疑問で問うだけ、というのは卑怯である、とも感じもします。
しかし、どの議論も本来の「姨捨山問題」設定からかなりずれている気がします。
死の問題は「親しい、見知った人がいなくなる」という極めて近似的なものとしてはじめは語っていたことであるのに、今存在している目の前の大きな問題が、「世界」の中にある矮小化された問題に縮小化されてしまっている。
「近親者」「ホームレス」「他の国への募金活動」これらは個別で検討しなくてはならないことです。その後で、繋がりを見出せるようならば見出す。それくらい細心の注意を払わなければならないことではないでしょうか。
世界は大きい、個人は小さい、世界の苦しみは大きい、個人の苦しみは「小さい」。世界と個人を同時に、かつ並列的に述べるメンタリティは、「世界」がまず存在して、「自分」という存在が「生かされている」と感じているから感じられる事です。「生かされている」のだから、「世界」に対して恩返しするべきだ――それは、とてもよいことなのだ、と。そして、「近親者」「ホームレス」「他の国への募金活動」は同時並列的な事象として語られる。しない、とうことにおいては同じ事といった感覚で、存在する「痛み」と「苦痛」を同一化し、平面化――フラットにしてしまわれているのではないですか。