論点整理

これまでの論点を私なりに整理しようと思います。
「間接的」な関与が殺人にあたるかどうか、という問いを問われて答えましたが、本来、議論の骨子は「当事者の問われたときの感情と、その問いは果たして問うてもよいものかどうか」であったと思います。
私が追った順から述べさせていただくと、姨捨山問題を最初に拝見したのはsugitasyunsukeさんの記事でした。この時点では「当事者の感覚と感情」を論点にし、多くの方もその論点をもってエントリをあげたのだ、と私は感じています。私もその点に関連して、いくつか問題点を列記し、改善ポイントがどこにあるのか、ということを提案したことで結びとしました。

そして、もうひとつ議題があがったのが「200円募金」との関連性を示唆すること、またその関連性によって、間接的関与の可能性が発生する、ということでした。そこからは「間接的関与に責任関係や因果関係は発生するか」というメタ議論でした。
こちらはとてもわかりやすく、流れを統括されているエントリだと思います。

「間接的」なら殺人になるだろう、という言葉も聞きましたが、私も「間接的」ならばどんなことでも罪になる、というような前提で議論してもいいとは思います(が、いろいろなところで突っ込まれているので割愛します)。そうした前提で言うならば、姨捨山問題の近親者に対する罪と後悔の念、ホームレスの問題に取り組まない罪と後悔の念、募金をいつまでたってもしない罪と後悔の念、これらがひとつ「罪」として括って話すことは(現実に言えば不謹慎ですが)「議論」の骨子としてあってもいい。その「間接的」な観点からの議論は興味深かったのですが、問題はそちらにはないと感じていたので、考えをこんがらせないためにあえて「問う側」の問題に焦点をあてたままにしておいた、という経緯です。そのため、周囲には説明不足となっていた見方もあるでしょう。私ははじめから議論の焦点は、「問いそのもの、責任の問い方」ではなく、x000000000さんの「罪の扱い方」であると思っていました。
罪の捉え方自体は、個々人で違うことはわかりますし、実は最初から、そのことを問題にしているのではありません。おそらくd:id:keya1984さんも、d:id:uumin3さんも。今回の問題――「罪の扱い方」とは、「できないのに、しない」という言葉にするような、「問い」、それも感じられる側、受け取る側が、その問題を「重要だ」と感じていればいるほど、「極端に身近」であればあるほど、その言葉の意味は重くなっていくような「問い」の是非を言っています。
恣意的に議題をずらしていると最初は感じたのですが、同時並列的な問題であると考えていることが自明となっているからこそ、それぞれ別の事象も同様に扱っている、と考えたほうが自然です。ただ、論点がすり変わってしまうことについてはもうこれ以上突っ込まないことにしようと考えています。これはまた、「意識」や「文化」に関することなのでここは突っ込むべきでもないのでしょう。最終的には(議論が続く限り)いずれ明確にしなくてはいけない前提ですが、前提を明確にする事をおそれ、自明であるという主張を絶えず続けることもあるのかもしれません。それでも、絶えず「自明」としている感覚はどこにあるのか――議論していくうちにみえてくるものもある為、「明確」にする必要は、ここではないだろうとも思います。

暴力だという批判は承知している。承知した上でなお、他人の責任は、それがあるならば追及されてよいとは思う。もちろん、そのときに「言い方」や、「誰が言っているのか」という問題は残るとは思うが。

人を責めるのはよくないのか? - G★RDIAS

この言葉は、「それは(問うこと自体は)さほど重要ではない問題なのだろう」と感じなければ出てこない言葉でしょう(そのご本人からのお返事がないため確証にもなりません)。”言い方”も、”誰が言う”、というのもない。問われた対象が「どう」感じるか、ということに、結局のところ、関わってくる問題だからです。
なぜ、”どう感じるか”ということが重要なのか。それは、いくら努力しても報われないこと、という感情そのものが根底にあるからです。当事者――この場合姨捨山問題の介護者――の想定された当事者の感受性の強弱も無論あると思いますが、この問題はそのほとんどが「選択肢の存在しない、自由の存在しない絶望」の状況下にあります。そこに存在する「ナイーブさ」「切実さ」「重さ」「身近さ」を感じていて、それでもそれら諸問題を同じ重さ、同じ質のものとして語っているのか。それとも――その「重さ」は、世界に渡る間接的な募金や、通りかかったホームレスの、状況がよくわからないまま通り過ぎるような「間接的殺人(かどうかは定義によりますが)」と同じような”感覚”で語るようなものなのか。そもそも議論のはじめからそのことを言っているのです。
そこが未だに明らかにされていないため、発話者同士による合意形成が為されない。だから、どの記事にも「区別できるかできないか、有か無かという曖昧な問いをしているではないか」という意図のつっこみが入る。そして、「問いに含まれる問題は、それぞれどこでどうつながってるんだ」と感じる人が増えてくる。
結局、メタ議論でもいいのです。「姨捨山問題」という現実に実在する悲惨な出来事を主題としていたことが、別の問題になったんだなと感じるだけで。ただ、そうしてメタとベタをすりあわせた後ですが、また別の問題が浮上します。当事者がなにもできずに「罪」を犯したことは事実である、と仮定し、更に、間接的な事象でもなにもできずに「罪」を犯したことは事実である、と仮定します。それ全てに対して、「できたのに、しないんだね」と問うこと自体は「罪」には問われないのだろうか、と。感情的に追い込まれている当事者に問う、という事実は、倫理的に、それはオーケーなのか、もしくはタブーなのか、と。

私自身は、姥捨山問題とは、端的に「嘘つき・欺瞞」の問題だと考えている。すなわち、「出来るのに、しない」ということを、「出来ない」と言い放ってしまうことに問題があるのでは、と考えている。私が苦しむがいやだから他人を見捨てるのだと、言えばいいのではないか。もしくは、私はそう言わせたい。「いやだから、しない」ということを、「出来ない」と言い放っておけばとりあえずは「許される」、ここに姥捨山問題の萌芽があるような気がしている。「本当は、出来るでしょう?」という声を封殺してしまうこと、ここにもまた姥捨山問題が論及する暴力が潜んでいるのではないだろうか。

姥捨山問題をめぐって - G★RDIAS

そこが議論されずに、また議論する必要性を感じない自明の前提なのかもしれませんが、x0000000000さんは「本当はできるのに」という声を封殺されることをおそれていらっしゃるのでしょう。しかし、これは「封殺」「言葉狩り」といった、決してそういう類のものではありません。lessorさんsugitasyunsukeさんはそれを理解していて、「その問いはそもそもどうだろう」と問いかけています。私もその「本当はできるのに、しない」という言葉の裏に隠された意図――「努力をしない人」「甘える人」といった、「できない人」とされる言葉の重み、できるできないに関わらずその言葉は刻印として介護者にのしかかるでしょう。できたとしても「できない人」であるし、できなくても「できない人」なのです。「怠け者である」と”思って”いるだけならそこは他者がどうこういう部分でもないのでいいのですが、言葉を発する事によって、限界にこれから立つ、もしくは既に立っている介護者は、常にその視線のプレッシャーを受けることになる。
「過剰反応」ということではないのです。「現実を無視している」ということでもないのです。「介護者にとってその現実が残酷であり、絶望である」という事実を掬い上げたいか、それとも見捨てたいのか、自分の考えと望みを押し通したいのか――他者を傷つけてまで。そうした問題です。どれだけそれを実感するか、認識するか、理解するか、ということで全く世界は違ってくる。そこを突き詰めていかなければなりません。その「突き詰める」ことが残酷であっても、気付いてもらうよう、言葉を尽くし言わなくてはなりませんでした。

「認められないこと」をすることを「無駄」だと考えてしまう事が、この問題の根深いところにあるのかもしれない。ただ単純に「欺瞞」だとか「嘘吐き」だというレベルの話ではないのだと思う。
結局のところ「できるのに、しない」人などいないことに思い至る。できるのならば、するだろう。何故なら、それは「承認欲求」と「社会的義務」を同時に満たすことができるからだ。「承認」という他者からの「存在の肯定」こそ、介護する側が本当に必要としているものなのかもしれない。そこを無くして、「倫理」や「責任」を個人に問うことは酷であると私は思う。

欺瞞のCANと、DOの承認

そして同時に、「問うことで何か解決されることはあるのか、状況が改善されるようなことはあるのか」ということも頭に入れておかなければなりません。そして、私はひとつ「問い方を変えてはどうか」という提案をしました。
これを読まれているかどうかはわかりませんし、もしかしたら的外れな提案だったのかもしれません。政治や経済から考えてみれば、あまり発展性の無い提案だったのかもしれません。ただ、当事者から考えてみれば、私はこれが最も重要であるのではないか、とも考えてはいます。

他人のナルシシズムを批判するときには、「それはナルシシズムだ。ナルシシズムを抜け出して実際に何かやってみよう」と呼びかけてもいいし、「ナルシシズムも開き直りも同じ(そして結局何もしない)」と呼びかけてもいい。どちらも可能。なのに後者になるとすれば、その選択自体はナルシシズムの問題とは別に考えられるべきことだ。
ナルシシズムを批判するメタ・ナルシシズムというか。

メタメタゲームを降りてみる - モジモジ君のブログ。みたいな。

mojimojiさんはそう感じられたのかもしれませんが、keyaさん(のことを言っているのだと思いますが)はそもそも「ナルシシズムだと感じたから反撥した」のではないと感じています。*1
恵まれない人を見殺しにすると言うけれどでkeyaさんが間接的関与に対する自責の念はすなわち自己陶酔である、と論証した事だと思いますが、「自責の念に囚われているただの自己陶酔が嫌いだから」ではなく「自責の念に囚われて自己陶酔をしながら、責任や罪という重いものを簡易に口にしている無責任さ」を言っていたのだと読みました。間接的関与の罪を問うことの無限責任とは、結局無責任じゃないか、その罪を問うて無限責任を負わせてしまえば、とどのつまり無責任だ、と。
また、個別性の問題を、「普遍的な事象」として語り、またトップダウン式に「全ての個別性は普遍に属する」とした問い方も批判しています。――要するに、「間接的関与」を肯定した後、Aの事象の「罪」が自分にあるなら、みんなAの事象の「罪」をもってしかるべきである、ということです。これに対して、keyaさんは「嫌悪感」を抱いたのだと、勝手ながら推測しています。私もその一人ですが、この”共同体がアプリオリ”ともいえる部分を変えて欲しいなどと言う事は、信条の関係もありますので追求は出来ません。が、こういった認識の仕方だからこそ、”どんな「状況」でも例外なくBである”とした全体をフラットにしたものの見方も可能なのです。その場合、相手が自明の前提を変えることはないと考えるのであれば、「重い環境下にある人に、更にAも背負わせるのは酷だから、言うべきではない」と言う事しかできません。私は、それを認識した上で、「当事者感情もその条件に付随させるべきだ」という主旨の事を述べています。
この「間接的関与」が否定されれば、これは発生しないようですが、まだ未検討の領域ということですし、肯定も否定もされない、という段階と結論付けてもいいでしょう。
「メタメタを語る話」という立場もあるでしょう。けれど、私はmojimojiさんの仰るように、ベタとして切実に、真摯に捉えるべき問題であると最初から感じています。メタ議論だけに終わらず、実際の人の生活にどう影響してくるか、という問題です。
ただ、ベタにしてもメタにしても、果てしない問題ではありますね。メタとかベタとか、私にはよくわかりませんが、もしかしたら議論を見ていた一人ひとりは、でてきた意見を恣意的に採取する事で解答をそれぞれの形でなんとなく持っているのではないか、そんな気もするのです。

*1:keyaさんについて論及したのではない、というご指摘をmojimojiさんから受けました。申し訳ありません。