論点整理2

論点整理 - Double Lineの続きになります。
姨捨山問題と、200円の加担と間接的な加担となる行為はやはり別として、私は捉えています。捨山問題は「間接」ではなくて「直接」という重さに近いものだと思っているからです。個人が個人にたいする行為、それが直接「死」「見捨てる」ということの事実へと反映されるのならば、それは直接の重みとして介護者は感じられるのではないか、と。それに対して、「できるのにしない」というような、「しないのならばできない人だ」という恣意を発する言葉を投げかけられ受け取れば、「直接」という重みを「罪悪感」として感じてしまう。
そもそも「罪悪感」を感じる事自体が重要だ、ということが重要であると私も思います。ただ、介護者はそもそも「”直接”として関与」していると感じられるほどの身近さと事実があります。そこへ更に「罪悪感」をのせる言葉はあまりにも重過ぎます。自覚させるのではなく、罪悪感を認めさせるのでもなく、そこにある苦痛を緩和する方法を考えるほうが、姨捨山問題自体には建設的に働くと考えます。
また、それとは別に、「加担する」とは何をすることなのかで拝見した問いについても考えました。色々と議論されていたこともあるので、私も様々な状況設定の下、考えてみたいと思います。

間接的な加担と直接的な加担

加担を語る際、「直接」であるのか「間接」であるのか、その部分も分ける必要があります。直接であるのか、間接であるのか――それは「加担」した人の「罪悪感」の重さの感覚にあるのではないか、と私は考えています。

  1. 新聞でニュースを見て、そこに訃報や殺人事件があったことを知るという形で、誰かが助かったり助からなかったりしたことを知識として知ったという事実。
  2. 人が大勢居る中、誰かが暴力をうけている状況で、暴力を止める為に動くという形で、誰かが助かったり助からなかったりしたという事実。
  3. 自分以外誰も居ない中、誰かが暴力をうけている状況で、暴力を止める為に動くという形で、誰かが助かったり助からなかったりしたという事実。

たぶんこれらは、人によって「間接的」であるか「直接」であるかの定義が違ってくると思います。三番目は「直接的」な事実である、と感じる人は多いと思います。一番目は「間接的」だと思われます。一番目でも「直接的」だと重く感じる人もいるでしょう(そこが分かれ目、という人もいるかもしれませんが、罪悪感を感じないからといってそれが即悪いことになるとは限りません)。では二番目は、「間接的」か「直接的」か。
私の場合は、「見ていた」「視野に入れた」という、直接対象に対する投げかけを行なっていた場合、助けられなければ「直接的」な重みを感じると思います。もし、ここで何も知らずに視野に入れることがなく、後で知らされた場合、その事実に驚き、間接的な重みを感じるでしょう。
見ていたのに行為をしなかった、という事実と、見ていなかったが行為をしなかった、という事実の二通りがここに存在します。
「重み」の感じられ方は個々人で違いますが、見ていたのにしなかった、という事実を受け止めている場合、それに対して指摘される言葉は重く感じられ、見ていなかったがしなかった、という事実を受け止めている場合、それに対して指摘される言葉は――「そんな事実は無い」となる。視野に入れていないのだから、見ていないのだから、”見逃した”という事実は無い。
これは、記憶の「想定される場面」に依拠します。「押し付けられた」と感じる人は、その「場面設定」がこの「見ていなかった」部分を想定しているからだと推測します。過去、そういった場面があったか、なかったか。もし、三番目の状況を経験している人が事実指摘の言葉を受ければ、元々あった罪悪感を思い出すでしょう。一番目の事実を思い浮かべる人に尋ねれば「それがなにか」と返されるでしょう。二番目の事実――この曖昧な、都市的な状況をまず頭に浮かべる場合、直接だったのか、間接だったのかが曖昧になります。募金にしても、直接だったのか、果たして間接だったのか。そして、間接ならば加担しているのか。加担でもあれ(直接)ば、加担でもない(間接)。
事実の照応はともかく、人間の認識として、直接も間接も全てがあやふやの状態で、今の世界はあります。
つまり、そこへ唐突に、他者の想像をせず「加担」という言葉を投げかけた場合、そこには「罪悪感を感じる場面を想定する人」と「罪悪感を感じない場面を想定する人」に別れます。「罪悪感を感じない場面を想定する人」は「そんな事実は無い」と感じ、「罪悪感を感じる場面を想定する人」は「募金をした(もしくはしなかった)、死んだ人と死ななかった人を自分の関与で分けてしまった」と感じるでしょう。
「加担」とされることで二者に分けられ、罪悪感を感じる場面を思い浮かべる人はさらに「死」を分けてしまった、という苦痛に苛まれる。罪悪感を感じる場面を思い浮かべない人は、やはりそのような事実は無いのだと、不当な言葉に反論します。
この、あやふやな状態に、「加担」という一つ単語で括ってしまい、それにたいして同様の認識をさせる、ということはできません。何故なら、そこには受け取った人間の「記憶や経験」が存在し、感じなかった、感じた、それぞれで、それぞれの違った受苦を感じるからです。当然、発話にも「そうだ」「ちがう」という反論と同意がされたとしても、それでも言葉に出した、ということは「罪悪感として認識した」も同然です。それ以上「罪悪感を感じろ」という圧迫感を与える事に何の意味があるでしょうか。
つまり、その問い自体があまりにも無意味になってしまう。ということは以前にも述べた事ではありますが、もう一度考えてもやはり、この一つ単語による意識の相違による分割が問題になってきます。

プレゼンテーションの意味

ピンポイント爆撃をする方法を考えなきゃ行けないところに来てるんじゃないかと思い始めてるんですよね。

「間接的人殺し」という価値観を押し付けることが「政治的に正しくない」例をいくつか考えた

「間接的人殺し」という価値観を押し付けることが「政治的に正しくない」例をいくつか考えたでもプレゼンの有無による差異の解消について述べられていることについて、自分自身考えてみましたが、私は、この問題は「全員に”同様の”罪悪感を自覚させる」ことについては悲観的に考えています。だから、「出来る限り言葉として出すべきではないのではないか」としかいえないのです。遠回りでも、冗長でも、他者がそこにいるかぎり、自分で言葉を創りながら発話したほうがいい。もちろん、政治的な意味で。
「誰」がどういった「場面設定」を思い浮かべるのかなど分からない。Web上では、言葉を放ってしまえば、そこに文章として残ります。コミュニケーション内で、「こうじゃない?」と問われた際、様々な感情を表出できる即応性のあるものとはまた違う。Webでは感情的に反論すれば、その意見もまたそこに残り、「感情的だ」「認識できていない」――と、その人がどういった「場面設定」を想定したのか如何に関わらず、「認識していない」となる。つまり、噛合っていないのです。その場合、どういった状況を想定しているのかということを前提として明らかにしなければならない(情報の非対称性)。
つまり、「問う」側に必要なのは「場面を予め設定する」ことではないか、ということです。情報完全ゲームとして、意義ある討論になるかもしれません。その上で、その人が「設定された事実」に罪悪感を覚えるか、覚えないか、はまた別の話ということでしょう。kanjinaiさんはホームレスの人を助けるべきかホームレスの人を助けなかった私のエントリでそれを発言されていますが、「見殺しにすることに加担したかどうか」という点で訊ねられている点で政治的ではない。この場合「助けるべきだったか」と、問われるべきでした(タイトルではそうされていますが、文脈上そうではない)。消極的な言い回しではなく、積極的な言い回しに変えるべきだった。消極的な言い回しになってしまったのは、おそらくkanjinaiさんが事実を罪悪感としてわだかまりを感じ、それを重く抱えておられるからではないか、と思うのですが、言葉に出した時点で、相手はそれ相応のものとして情報を受け取ります。その「重い言葉」はどう感じられても仕方がない発言です。そして、罪悪感を感じている場合、それでも反論している人のほうが多いと思いますよ。それは、「発言内容」などではなく、「発言したいという感情」だけが物語るものです。理屈上のものだけで反論したのだ、と感じられるのならそれでもいいのですが、反論した人はおそらくそれ相応の事情や事実があります。

結論

私自身は、「人間が生きるためには必要である事とないことがある」と考えています。問うときは、常に自分の胸に。