欲求―過去の痛み、経験の融和

私は、今も過去も、同時生起しているものと考える。過去を思い出している”私”は現在に居る。その時点で、「時計」としての過去はあっても「認識の過去」はない。もし、「歴史」というものが客観的なものとしてあるのならば、それは時間として過ぎ去った、他者との融和と別離の間に存在する記憶というものだろう。
その「歴史」を私自身の体験として垣間見る時、その時点で生起するのは「過去体験」による感情と、「現在」の感情だ。そして、過去経験と現在思考が同時生起している事実は、現在の「私」にとっては変えがたく、「過去は過去」といった「時計」で測り捨置くことは、「現在」における私の「過去を思い出している現在の私という体験」すら捨ててしまうことではないか、と思う。そして、「過去」といった周囲との間に生じる「私の歴史」を自己消化するためにも、「過去を思い出している現在の私という体験」を再度思考することは重要だと感じる。
私が過去を描きだした時、「描き出した瞬間」に生じていた僅かな感情を見逃さす掬いあげる。それは金魚すくいの、脆い紙のようで、容易く破れてしまう。だから、私は何度もそこに生じた「感情」と同時に、第三者としての「視点」も付随させながらそっと碗の中へひとつずつ、納めていく。
「あの事件はこうしたものだったなあ」「この文章はこんなものだったに違いない」「あの文章は面白かった」「あの文章はいやなかんじを受けた」「あの経験はきつかった、ためになった」「もっと理解してもらいたい」「もう理解されなくてもいいかもしれない」
などなどの想起された言葉群。「理解されたい」という感情を穏やかにする事ができたのも、「過去を思い出している現在の私という体験」を同時生起させ活性化したためだった。理解されたい、と考える現在<いま>における私の感情、それはただ他者に求めているものか、それとも自分に求めているのか。実は他者に求めているのはそうした「反応/反射」が還ってくる事を望んでいるだけで、本当は「本当の理解」などえられないのだと、そうした「反応/反射」が自分の中にあることが”認められてこなかった/否定され続けた”ことを理解しているからではないか。
「されたい」という被理解欲求は、すなわち「したい」ことなのかもしれない。「したい」という行為が”否定された”体験が強く残り、だから今度は否定された行為が他者にあることを求めた――それでも、否定され続け、ようやく私は自分の「したい」ことへと視点を落とした。それは長い遠回りに過ぎないが、けれども、遠回りだからこそそこに「他者」が存在したのだろう。
私には、「成功体験」なんて、ひとつたりとも存在しない。「理解された」ことなど、一度も感じた事など無い。体験といっても、私には「体験」など何の意味にもならなかった。ただの風景、通り過ぎていく景色と体験だ。それを感じていた「現在の私」という、そこにある僅かな感情をひとつずつ拾い上げていくしかなかった。
それに「成功体験」は、「自己承認」という求めているものが確実に還ってくるという事実も付随するが、「自己肥大」という自省する猶予を与えられない事も少なくない。適度な自己承認ともいうけれど、それが一生与えられないことを理解している場合の話、どうすればいいのか。
つまり、「一生与えられないことを理解している」私をただちに認め、すぐさま「されたい」ことは「したい」ことだったのだ、と自己否定に陥る前に認知修正を行なう必要がある。しかし、そうそう簡単にもいかないものだ。だから、「したい」ことを少しずつ行なう。アウトプットしながら、そうした行為を省みて、そのアウトプットした自分自身を「理解した」という区切りを、少しずつ自分の中でつけていく。私にとって異質なものを、理解不能なものを理解し続ける。それが「自分が求めてきた数だけ」集まったなら、そこから「生きている私」を認められる。
そうであるならば、「過去を思い出している現在の私という体験」における「理解したい/されたい」感情自体を押し潰したり、抹消してはならない。いつか、それは「時計」という「歴史」の中で創生されていくかもしれない。「成功体験」ではない――「成功創生」といえるものを。