全体概念と類推

「みんながんばっているんだよ」
このような共感を求める言葉は、何故か「私」の認知では「死ね」になるらしい。困ったものだ。この認知を緩和する為にも、自己認知療法だけではいけない、自己催眠を行い、自己の理解を深めないとだめだ。
「みんながんばっている」、つまり、メタファーとして「あなたはがんばっていない」「まだまだ努力するべきだ」という意味となる。「私」が抱いている「苦労した」という、至って主体的で主観敵な過去から現在まで連綿と刻印された事実と照合されない言葉だ。そして、照合されない、つまりエラーが断続的響き、推論による意味的逸脱が惹起され続け、脳の中で回答が得られないまま仮定された推論は沈没する。
何故回答が得られないのか、というと、「全体」という恣意性を持った意味は、同様の「体験」を感じ取っている人にすれば救助されるような恣意性を感じ取る事ができるが、逆に「そうではない体験」を感じ取っている人にすれば、まるで難破した船から突き落とされるような感覚をかくも味わう事になる。逆にメタファー*1として「あなたは頑張っていない」という意味性もこの言葉は備えている為、「頑張っている」という主観が厳然として主体に存在した場合、「頑張っているのに頑張っていない」という、「頑張っている」とした事実と「頑張っていない」とした他者の意思による摩擦が自己矛盾を引き起こし、苦悩することになる。その上で、この言葉は私にとって「地獄」のようなものなのかもしれない。「私がそう感じる」というのは「感じている」という主体的なものではなく「自律作動」のような機械作業である。
結果、沈没した巨大データは、心臓やら肺やら、脳やら諸機関への身体反応として影響を諸々に与えるということなる。このきつさというのは分かる人にはわかるのだろうけれど、心臓や肺の辺りの動脈がぎりぎりと搾り取られていくような身体反応が生じる。また、後頭部のあたりの血流が鈍磨したような感覚がある。
その「巨大データ」がどれくらいなのかは、私自身、見当もつかないけれども、身体反応の影響を最小限に抑えるためにも、過度な「推論」を行なわない、ということがまず先決なのだろう。耳を塞ぐ、目にしない、ということが必要……なのかな、実際のところ。ただ、こうした態度をとると「きいてるのか!」となるわけで、しかもそうした状態の時点で応答する事する余裕すらできないわけで、どうしたものやら――。
ようするに、そうした状態になっても責め立てる必要は無い、という有効性を説明するべきなのだろう。「しないでください」では、納得できないだろう。
意思決定は、「感情」という一本の線によって。意識的にせよ無意識的にせよ意志を創発し行為する。実は、「感情」は他者からの攻撃による「防御」も同時に行なう事ができるのだ。自尊心、と言い換えることもできるだろう。それがあるからこそ、傷ついたり他者に感情をぶつけることができる。感情的な反撥、というのは他者攻撃からの防御、自我を守るための防壁になる。
感情と思考の線が途切れていれば、自分の意志と行為の繰り返しによって「感情」の線を強化していくしかない。それが全くなければ、ただ呆然とし続け「自我」を削られるままになるのだ。自我が削られ続けたその後は空白だ。感情が生起しない、というのは「動じない」点で、ある意味メリットもあるのかもしれないけれど(あるのかどうかは分からないけれども)、デメリットも大きい。感情を生起させた時点を起点として文章を打ち込む事を通常の状態だと仮定する。それに対し、私は噛合わない事実と言葉を照合しているのだ。他者感情を感じ取るために必要な言葉から推論を行うことで、耐え難い苦痛の衝動は生じるけれども、それを抑えるための方法はあるのだろうか。
感情がいらない、ともいる、とも私はいえないけれども、自己で取り押さえられないほど極端になってくると辛いのはどちらも同じだなあ。ただ、「ない」というよりも「あやふや」「掴み辛い」といったほうがいいのか。

*1:アイロニーの間違い。kusamisusaさんありがとう。これからもずっと間違え続けるところだった。婉曲語法ともいいかえられると思う。