感情抑制

私は、全ての原因に”「感情」が抑えられなければならない”という状態が原因なんじゃないか、と思う。
「感情をおさえる」というのは凄く難しい――というよりも不可能だろうと思える。「蔑視」にしても、感情を流出させまいと抑えている人達専用の「感情の捌け口」という出口のようなものだ。それは、とても苦しい嘔吐のようなものなのかもしれない。そして、吐き出されたそのモノを見て、再度苦しくなる。――というか、私自身そうした「感情」を散漫になった場所から掴み取ったとき、酷く悲しくなる。何故私に、こんな感情があるのか。捨て去りたくなる事もあるが、「苦しさ」がそれを上回っていて大体は押し黙ったままになっている。それが蓄積すれば、別の何か、文章以外の何かに昇華しないと私自身が壊れてしまうようなものなのかもしれない。
「感情」は醜くないと私は思う。「悲しみ」とか「辛さ」とか「嬉しさ」をありのまま言葉で表現している人が好きだ。女性が感情表現をありのまま出して、「ひどい」とか「悲しい」とか、そうして「苦痛」を表現し、「嬉しい」などの言葉で喜びを表現しているのも好きなのだ。
逆に、「感情」をおさえなければ、と思う人もいる。「喜び」も「悲しみ」も表現すれば逆に潰されると感じている人が居るのではないか、と思っている。いつか、その抑制に潰されるんじゃないか、と私は見ていて怖くなる。そうならないように、何かで「吐き出している」のかもしれないけれど、それは、自分も他人も傷つける刃になってしまっている。というか、自分を傷つけるために作り出している言葉なのかもしれないとすら思う。
このある種「感情」の抑制――現実社会で生きて居るうちでも、Webでも求められている場合、その「感情」はどこへ流れ着くのか。
私の場合は、認知と衝動に鎖をつけないといけないから、感情とはまた違うのかもしれない。けれど、鎖を付け過ぎたらどうなるか、というのは誰かえらい人が書いてないだろうか。私は、最終的にはコミュニティの最下層へ行き着くと思っている。漸化ではなくX=1/aYくらいの緩やかな勾配となり、その「抑制」のレベルが大きくなる――つまり、「抑制」していると感じている人ほど世界が思い通りにいっていない、ということなのかもしれないなと思う。
ゆえに、私の場合「感情」を思いのままにしている「女性らしさ」イメージ像に「世界が思い通りにいってそう」な雰囲気を感じるのかもしれない。あー、思い通りなのかなあ、というイメージっぽさを、私も感じるときはままある。けれど、事実認識しているわけでもなく、実は「抑制」されまくりな上で「爆発」しているのが女性感情であるのかもしれず。爆発の仕方が「蔑視」か「爆発」か、そんな違いだけなのかもしれない。
なんというか、「個別体験を排した表現手法」「蔑視」「婉曲・比喩」が加味されている言葉ほど、「抑制」されていなければならない世界にいるのかもしれない、と感じる。
関係ない話だけれども、お酒を飲み過ぎて公共の電車で嘔吐しそうにしている女性を見た私は、手許にあった黒いバッグを口元にあてがった。買い物袋だったけれど、どうした判断だったのか、咄嗟にそれを差し出したのだ、私は。何も考えない脊髄反射というものだった。結局、隠れて彼女は黒いバッグを持ちながらどうにか処理していた。そして、バッグは彼女によってゴミ箱へ投棄され、彼女からは言葉は何も発せられず、そこで別れた。バッグを捨てなければならない罪悪感が、顔をあわせたりお礼を言うという言葉すら失わせたのかもしれない。
それが精神の「緊急事態」である場合、誰にも見えないところで、というわけにもいかない。誰かに”見られる”という社会的欲求条件を満たせるものでないと満足しない嘔吐現象。それが尚、己を苦しめる。
私には、「抑制することはない」としかいえないのだろうと思う。