心と体

周囲から責められると、その世界全てが自分を責めているように感じられる、という状態だった頃がある。今でも、そうした兆候はあるものの、他者認識が出来る前の私は、「自己完結」した自己によって、他者が「わからない」から自分の中で他者の評価を勝手に下す――という評価があると信じて他者を勝手に評価する、と信じて、という自己ループ的な入れ子構造となっていた。ゆえに、他者はそうではない「自己完結性」を持っているかもしれない、ということがわからない視野狭窄がある。
他者に引きずり込まれようとする意思と支配性から逃れようと、人は意思から身動ぎ反撥する。そしてまた、人は反撥された事に被害感情を募らせ、更に引きずり込ませようとする。これは、同時に「他者側」にとっても同様の衝動が起きている。反撥しながらも、その反発性によって「相手を含んだ自己」の認知を守ろうとする。自分と他人の「孤立性」を共有し境界を緩和しようとして逆に反撥をもたらしてしまう。相手もまた、「孤立」であるのだから。
つまり双方共に孤立している場合、守衛合戦の様相を呈する。その守衛合戦が繰り広げられた結果、どちらもが、認知の解消どころか、ますますそれを自覚する機会を失っていく。何故なら、「反撥された」という事実が感情と共に記憶として残り、その記憶にこだわっている限り、認知の自覚そのものが反撥されてしまうからだ。
そして、「相手は結局自分だけ」という状態のまま、至極真面目であればあるほど、一貫性を持った「現実」として浮き上がっていく。「相手は結局自分だけ」かもしれないし、「相手は結局自分だけじゃない」かもしれない。個別性を人間が持っているということを事実として知りながら、個人にとっての「真実」が「相手は自分だけ」「相手のことはわからない」という意識は言動や行為にも影響する。
孤独性――それも徹底した孤独性を理解しないと、「孤立」から立ち直れない。この二つは矛盾していない。
生きる事そのものが「苦痛」であるのも、「どうしてわかってくれないんだろう」と、その「理由」ばかり追い求めていたからである。それは違うのだ。「わかってくれない」のではない、そもそも「何故」という純粋な疑問から出発することが苦痛になる。自分と他人、という肉体の狭間は、「何故」という疑問だけで解消できるほど、簡単なものでもないし、また、理解できるものでもないのだろう。
「他者はわからない」という考えは、まだ自分と他人を混同したままなのだと思う。自分と他人が一緒でいたいという欲望が前提でわかろうとするからこそ、「わからない」という。そもそも順序が逆で、自分と他人は違うことが前提でわからないから「わかろうとする」のだ。これは「感覚」として理解するしかなく、「わかりたい」という衝動に対して少しずつでも「抑制」として掘り下げていく。
「何故わかってくれないのか」――「何故私は他者をわかりたいのか」孤立という心の苦しみを生み出しているのは他人ではなくて、私なのだ。