「傷つける可能性」への言及

http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070502/p2
kmizusawaさんと同じように、私も、そうした「傷つける可能性」というものに対して考えることがあり、それに対して自分自身怖くなることがあります。Webでは、仮に読者の性質に若干偏りがあるとしても「不特定多数」ですから、それら全部に意識をさせるということは私にはできない。だから今でもそれに対して、どうしたらいいのかと考えています。寧ろ、そう考えて不安になりそうになる自己こそ守る必要があるのかもしれない。
抽象的な概念を考えるときであれば、人間がそこにいる可能性は低いのですが、もしかしたらそこにいるかもしれない「他者」がいるような話題を扱う場合、必ず誰かが自分にあてはまるのだ、と考える可能性は生じることは避けられない。
以前、傷つけてしまうかもしれない他者がいた場合「どう受け止めるか」ということを考えました。まだその考察はしていませんが、「どう言葉を取り扱えば誰かを傷つけるような可能性を極力排除できるか」ということも視野に入れようと思います。
私の場合、一つのエントリが一つの文脈だと考えていて、一つ一つののエントリはそれぞれが別個に「起承転結(とあえていいますが)」性を持っている。例えば、Aという文脈内で、aという事象を語ろうとして、bの話に持っていくと、そこに「差」や「差異」が生じ、文脈が削がれるケースがあります。
私は、言葉の単体で他者を傷つける、というケースは少ないと思っています。誰もが、やはりネガティブワードを口にすること自体を、ネタ以外では避けるもので、それを口にする人はとても奇特な人だと思うからです。
だから、問題はやはり根底にある「感情」がおさえきれないまま言葉となって出てくる、ということに終始還元されると思います。それを誰もが抑えられないから、どうしよう、と発言する際に困る事になる。その為、感情を抑制し、更に言葉自体を封じ込める事で、抑圧された感情が反動を時折起こしてしまう。それは人間のあり方としてどうしようもないことだと思っています。私の場合「世界・周囲・社会」という曖昧すぎるカテゴリがあって、きっと私はまだそれに対する感情を拭いきれない、というよりも、私個人がせめて私個人でいるために必要であるのが、そうした枠組みなのです。それに対する「嫌悪」をどうするか、と現在に至るまでいつも考えていました。だから私は曖昧だったそれを「理解」する必要性があって、まだそれを探している最中です。けれども、そう考えている中で「理解できない」と考えていた事が実はこうだった、ということもあって、「観察」と「洞察」を繰り返せば、一緒なんだな、と気付ける事に気付いた――だから、観照することが怖くなくなる。
「理解」を行なうための簡単な手法としては、私は「創作」したり「音楽」を聞けばいいのかもしれないと考えています。現実に起こったことをそのままの感情で書き連ねれば「誰かが傷つく」と自責にかられるような思いをするよりは、フィクションとして感情を入れ込ませる、というもののほうが実はいいのかもしれないと感じているからです。
そして、音楽を聴いたりフィクションを書くことでなんとなく「道筋」が見えてきたりすることが私にはあって、元々あった感情がそれによって既に整えられることもある。そして、自分なりに感情や思考の波を落ち着かせた後、「何らかの目的」をまず思い浮かべます。誰に、何を、どう伝えたいのか。伝えたい、という強いものでなくても「自己省察」という場合もありますが、その場合、自責感や自己嫌悪感が混雑してしまっていると、逆に自己認知が歪んでしまう可能性があるので、自分はこうだ、と考えるときは出来るだけ、自己嫌悪を感じれば何故嫌悪を感じるのか、というところから注視するところからはじめることにしています。
「何らかの目的」が明確にある場合、例えば「誰かに向けたメッセージ」であるとか「自分自身の正直な分析」であるとか、そうした目的に沿ったものであれば、見る人やその他に及ぶ「傷つける可能性」というのは少ない気がします。何故かというと、一つの「伝えたい道筋」があるから、その道筋に沿ってひとつずつメタレベルの意識を這わせて順番に「傷つけてしまうかもしれない可能性」を排除していく。もしそれが完璧でなくても、目的に沿った道筋を自分なりにラインを引いていれば、その道筋が他者が介入する事でブレたとしても、また修正できるような気がします。