言葉の錘

女同士で「女ってこうだよね」と笑いながらする会話。冗談と本音とないまぜになったような。

http://d.hatena.ne.jp/fuuuuuuun/20070503/p1

そうしたことはよくある。逆にそうなのかな、と聞いてしまうことが相手にとって不安を刺激するとわかってからは、首肯することにしているけれど、やっぱり果たしてそうなのか、というあたりでもやもやした思考だけが沈潜してしまう。
そのもやもや感が「疎外感」――「理解できないのは自分だけである」という確信を感じる原因なのかもしれない。それは近付きたい、共感したいのにできない「疎外感」というよりも、自然に会話したいから「絶望感」を感じる、というようなものだったりする。
「絶対に交わる事は無いのだ」という確信を得るために「カテゴリ」に入れられるくらいならば、脳から信号を拒否してしまえばいい、ルールを否定してしまえばいい、ということを行なっているような気がする(ただ、否定するのにもエネルギーがいるので疲れる)。というか、そうするべきなのだと思う。その言葉を受け入れてしまえば、多分私もfuuuuuuunさんも、頭上に被さってくる数トンにもなる言葉の錘に押し潰されて壊れてしまうだろうから。そして、逃れずに言葉を共有して受け止めている人が、私には錘に押し潰されてもなお嬉しそうに笑っている人に見えてしまう。
それでも、誰もが「わかっている」「理解している」わけじゃない、ということが、色んな人の言葉を見て分かってくる。「理解している」という信念――心の理論でも、誰もがその瞬間「相手も思考している」というところまで考えが及ぶわけでもなく、またその瞬間適切な対応をとれるわけでもないのだろう。だから、言葉の錘で「適切な対応を取っている」という共有感覚を幻想として抱く。
私は切羽詰った人に対して、「言葉で切羽詰った感」を全体で感じられるけれども、「切羽詰った感」をその場の雰囲気で感じ取る事ができない。だから必ず、どこかで「言葉に出せなかった想い」を感じ取れないまま首肯してしまうこともあったのだと思う。相手が攻撃的になるまで、そのことに全く気付かない――もしかしたら、傷ついたまま何も抗議せずに黙ったままだったのかもしれない。それは過ぎ去った過去で、今ではどうしようもない。しかも、私自身他者に執着しない性質だから、たとえ親友でも友人でも付き合い続けるということも一切なく、連絡も取らないことも当り前なのだ。だから、少しひっかかっていることがあっても「どうしよう」と悩むばかりで結局そこで立ち止まってしまう。
相手がその瞬間思考しているという心の理論が本当の意味で理解できたのは高校生の時で、それからは「誰がどういったことを今考えているのか」という可能性ばかりを考えて、それでも答えはないことばかりを考えている。それまで「他人は思考している」と考えられず「行為」を観察し分析する事で成り立っていたものが、「他人は今現在も思考している」という可能性をリアルタイムで考え続けるようになった。その為、終始「世界の全て」に対する不安や恐怖に苛まれるようになり、どこか「世界」に対して烙印を押して決定付けられるものを、一生懸命探していたのだと思う。
つまり、私にとって心の理論の会得とは、つまるところ膨張し続ける宇宙のようなものであり、それはいつか可能性の重さで唐突に収縮してしまい、可能性全てが押し潰されるのと似ている。可能性は始まった時点で全てが終わっている。通常の定義での心の理論は、膨張ではなくフラットの世界に見える。だけれど、そのフラットさの中には入れ替えや組み換えが常時着脱されたりしているのだろう。
多分fuuuuuuunさんにとって「女」というキーワードはとても大事なものなのだろうな、と思った。私にとってのキーワードは「世界」とか「生物」とか「他者」だったりする。

そして表現しなくてもこういった悲しみを察することの出来る人が、私の思い描く「女」なのかも。
女でなく、女の着ぐるみを着てるだけだなと思うのはこんなとき。

http://d.hatena.ne.jp/fuuuuuuun/20070502/p1

私が「世界」を理解するためのキーワードが「生物」や「他者」という概念だとすれば、私はきっと「生物」や「他者」の皮を被っている。というか、今現在も被っているのだ。「生物」としてあるにはどうしたらいいか――「他者」としてあるにはどうしたらいいか、とかそんなことばかり考えている。自分というのが、本当はない。相手に合わせて、相手の文脈に合わせて、そうするべきことを「している」だけに過ぎないのだ。勿論、自分自身のあるエネルギー貯蓄が少なくなれば「するべきこと」に対する態度も感情も衝動も全てがなくなって、生物として活動しているのに起動停止になる。
fuuuuuuunさんも、たぶんそうかもしれないな、と考えて今話しているけれども、もしそうであるのなら、fuuuuuuunさんはどうやっても「女」という概念に出会ってしまうのだろうと思った。
例えば、私は「他人にこんなことするなんて、人としてどうよ」と言われたら、きっと「ああ、人として在ってはならないものなのだ」と確信するだろう。「共に生きている生物として、植物を台無しにするな」といわれれば「ああ、生物として生きてはいけないのだ」と確信するだろう。
「生きてもいい確信」というものがあるとするのなら、私は「生きてはいけない確信」によく出会う。それは、通常の概念に照らし合わせれば「絶望感」と言い表されるものなのかもしれない。「絶望感」の生物的なメカニズムを掌握できれば、きっとまたなんとかなりそうだな、とも考えてもいる。
自己の存在のありかをキーワードから探すしか手立てがないにも関わらず、誰もが共有している「世界」の感覚を共有できない、理解できない。だから、そこにあるどうしようもなく逃れがたい「絶望感」を感じないようにするには、逃れる必要だってあるんだと思う。
けれどもこのようにして在る自分に対しての悲壮感はなく、むしろそれを追い求めている瞬間は「こうなりたい」「こうありたい」という自我を忘却した充足感に満たされてもいる。

手のひらをそっと開いて何かを見せていくような感じ。見せているわけではなく、見せていくというような。

ふむふむふふふんふん - S嬢 はてな

私もsatomiesさんと同じような感覚がある。fuuuuuuunさんのことばを見て、一般的な「女」という情報の集合はいつかきっと、「女」というキーワードとして鍵を開いていくだろうと感じられる。