事実の非対象性

事実は、観念と想像の積み重ねによって、個と他の意識の混交によって作り上げあげられる。事実は、自他の合意によってでしか形成されない。自を思考とすれば、画面にアプローチすることは他である。自他の境界によって、事実はそこに存在している。事実は認識した瞬間「過去」となり「過去」の積み重ねが「事実」として存在している自己を作り出す。
社会では他者に対してさまざまなアプローチ方法が介在しているため、事実と認識できることに対して、さまざまな想定する「事実の穴」が存在する。第三者はその「事実の穴」を覗き込みながら組み立てていくしかない、というのが現状でもあるのだろう。「事実の穴」を集めれば、穴が塞がり「事実」となるということはある。
私は生まれる以前の歴史そのものを自分の海馬に「記憶」「体験」していることはないけれども、覚えられるかどうかということはともかく情報としての「記録」を蓄積することは出来る。その「記録」によって合成されたものが、確実性のある「証拠」として「歴史そのものの確信」として提出される。そこに介在した人物像も、やはり「残された」記述による「印象」でしか物事を語ることは出来ない。また、主体者が記述していたとしても、やはりそこには出来すぎた創作物だけが残っているだけに過ぎないのかもしれない。歴史は、それ自体では成り立たず、何らかの「目的性」と「志向性」、将来、この歴史が何らかの役に立つことを信じているために歴史は「事実」として分析されるのだと私は考えている。そうしてさまざまな「記録」を「体験」した人間が、「確信」というものを得られるのかもしれない。
「歴史」では、想起された「事実」と、残された「遺品」「物」から分析的に把握される。しかし現在という時間の中では、さまざまな条件が流動的に流れ、事実は変動し的確に「事実」そのものを把握することは難しい。「歴史」のように、事実を明確にすることを目的とせず、政治的な理由を目的として「事実の穴」を利用する場合、それは「利害」として浮かび上がり「歴史」自体も「利害」という事実の衝突と積み重ねによって描き出される。
「事実」を認識するためには何らかの目的が必要となる。利害関係が存在している場合が最も「目的」となりえるが、「事実の穴」を組み立てても、それはその主体の思考そのものとなる。それを把握してなお発言する場合は、それを必要とし物事にアプローチして紐解くことを目的となしているのだろう。
私個人としては「事実」という、「目的」の合意が目に見えなければ何も進むことはできないと考えている。なぜならば、「事実」と「記録」なら、「記録」が「事実」に先行するからであり、「記録」のみを追うことによって、「事実」はそこに存在しないものとして扱われることの危険性がある。
仮に、「そこにこめられた言葉がどのような意図」であれ、「私」と「他」という空間において存在する放射的な情報伝達では、「他」は不特定多数――読まれること、を前提としなければ会話は成立しない。そうした「危険域α」を想定するしないということが当人において重要である/重要でないということと関係なく、それら危険域αは常に存在する。逆に、どう主体者が「反論」していくかはその主体の判断と私は考えるが、「反論しない」可能性に含まれる理由は多岐にわたるのである。0へと少しずつ歩み寄るのであれば、それ自体で「対話」は成り立っている。逆に考えれば、対話とは「自己」と「他者」が同時に0地点へと向かわなければ「対話」とならないことを意味する。
個々の認識で成り立っているものが、実際は言葉としてフラットに存在する。フラットと認識のズレにある前提を把握しなければ、個々の認識がどう「違う」のかということを正確に把握することは出来ないのだろう。そして、個々で感じ取った「認識」は「言葉」では把握できない。しかし、通じない、ということは同時に伝わっていることでもある。
言葉は言葉でしかなく、個々に感覚された言葉によってイメージとなり、個々の記憶と経験に照合されることで、ようやく<私>という存在が浮き上がる。そこから0の可能性へ近づくことが、私にとっては「受容」であるし、またそうする必要があるのだと私は感じている。もしそう「できない」ことがあるとするならば、それは<私>という人間の記憶にある恐怖そのものを表象しているからに他ならないからだろう。
「事実の穴」を認識することによって「事実」は微かに浮き上がり、「他者」とその事実をすり合わせていく中で「事実」となっていく。
ただ、問題となるのは、それが「自己」と「他者」の中のことでしかないということである。私は「事実=私と他者による主観の総合」の上でしか何も述べることはできない。何を以って「主観としての事実」を集めるか、どの程度集めればそれは「納得」出来うるものなのかはそれぞれ違ってくるのだろう。