可視化と対話

事実、「とめていなかった」のではなくて「これまでなぜとめられなかったのか」と考えたほうがいいかもしれません。事実をどれくらい「知って」いるか「知らない」かを基準にするのは、その主体の決定と判断によるものであると定義します。その後で、何らかのアクションを、それぞれの動機に基づいて起こすこともある。
画面の奥のやり取りで「どこまで可視化」されているか、という明確な規定と目的が、両者で可視化されておらずわからない場合、多くは事実を知ることができません。完全に知ることができるのは、明確な当事者となった場合――つまり、他者と私が「画面」ではなく「対話」として「出会った」瞬間、となります。また、「可視化されている」という事実と、「読む」という事実が揃わなければ、第三者が明確な心象や目的の明確化と納得へいたることはできないでしょう。「事実」を知っている/知らないという条件によって1→nへの変遷もある。
また、「注意しにくい」ということを感じている人ほど「注意ができない」ということもあります。動機はともあれ無視していた、というところもある。それに対して、仮にkanoseさんが「面倒な相手だ」と感じていたからであるとするならば、同じように「面倒な相手だ」と感じ無視していた人に「不思議だ」といっていることになります(結果として同様の結果と効果を生み出しているから)。だから、kanoseさんにとって「これまでなぜとめられなかったのか」かというのは、kanoseさんと同様の感じ方をしていた結果である可能性もあるし、他の可能性もある。注意が出来にくいという感覚を感じられることが多いほど、注意をしていない”ように”見えるという「可視化」された「場」というものもあるのかもしれません。ただ、「知覚できるかどうか」についてはまだ確からしいことはいえないのです*1
また、複合的な条件が織り交ざって「注意しにくい」という状態があったと考えられます。「注意しにくい」と受け取れば、やはり「注意しにくい」場というものが「見る」という状態において、「見る」者からは、必然的に「場」が形成されているという意識を生むことになることを、コミュニケーション/t時点の認知論にまとめました。
要するに、恐怖そのものが「見る」ということに「場」を形成しているように見える、ということです。「場」というものは「見る」ものがどのように「受け取るか」ということに限られ、また、その「場」が存在する過程には個人のさまざまな意図が存在している。それらを捨象し、「場」が悪い、とそれ自体に言うことはできません。それをどのように受け取るか、ということに「場」という「見る」というものは存在していると考えています。大野さんは、その点においては「場」というものをここで取り出す必要はなかったのだと思う。事実は、「場」が存在してそれが原因か、ということではなく――事実として被害をどのような形で受けていたかということを訴える、ということでしかないでしょう。

ブクマコメントのお返事

kusamisusa  kanoseさんは「面倒だから交流もしていなかった」。で、「交流があるのに止めようとしない人」を不思議だと言っている。のだと思うけど。

私自身は今回の事件が(大野さんから発端した)どのようなものであったのかも知らなかったので、kanoseさんが記事を出すまで知らなかった、というのがあります。だからこれについては言及すべきじゃなかったのかもしれない、と思っています。ただ、なんとなく「他人」に「止めなかったのはあなたのせいだろう」といわれるような気持ちになる人がでてきて、苦しく感じるのではないか、と感じたことと、今回kanoseさんが「連帯責任」ということについて言及されたので、私の責任がとても重く感じられ現実に悩んでしまったということもあります。そう確実に言及されているわけでもなかったと理解しました。また、これは別のエントリで、そこまでの範囲ではないと言及されているので、この点についてはもういいのだろうと感じています。だから、「可視化」という点をあげたのです。「見た」という時点において「面倒である/面倒でない」という「心象」はあまり関係がないだろうとも思います。違うのは「明確な事実を知りえている/知っている」かそうでないかということであると思う。
これはヒューマンエラーにも通じるところですが、「過去」何らかのアクシデントやミスをし、それに対して「当事者」がミスを責め立てたり解雇を要求するなどだけでは解決しないと同じことであると思うのです。仮にそれが、規範や模範はある一定必要であるという場合、「過去」を責めるような言説ではなく、「気づけないのは何故か」という方向に考えたほうがいいような気がします。ただこの事例では、規範だから、という前提は棄却されるでしょう。まず、「気づけない」としてもそれ「場」というものに責任があるという結論にはなりません。まず、被害者は自らの被害のみを訴えることが重要であり、責任は各自がおのおの理解するかそうでないか、でしかないでしょう。

mind 「注意しにくい」と受け取れば、やはり「注意しにくい」場が… ――好きな人とばかり付き合って自分セカイ場を造り上げてしまうことに改めて反省。 cf.「嫌いな人にこそ、特別よくしなさい」ともむん母さまの言葉。

「注意しにくい」と「場」を見て「注意しない」ということを判断するのはやはりその「主体性」や個人なのですから、「場」そのものがどうこうということではないと、今回のケースでは思っています(被害者である大野さんはその点で場の責任だと出す必要性があったのかということ)。また、その上で「事実と認定できない」場合やその他事実が錯綜し混乱のさなかである場合でも、やはり何もいうこともできないし「責める」ということに終わらず慎重に検討することでしょう。ネット上の対人関係ですから、どこまで踏み込むかという問題もあると思っています。
自分セカイ場っていうのは、私にも心当たりがあります……。

*1:結局のところ、「個々人の感覚」というものに還元されてしまうこともあり、「緊急」とそうでないものが文脈によって認識がわかれている。