合理的解決法

余計なことを言ってしまうことがよくある。同じことの繰り返し――とそうなってしまった状況の原因を考え途方にくれている。だから、人間の認知メカニズムがほしかった。
私は以前から集団についての合理的解決法を提案するのが好き、といってはおかしいのかもしれないけれど、そうしてすっきりして心が軽くなった、と思い嬉しそうな顔を見るのが嬉しかった。子どもの頃から人間関係の問題の当事者で、いろいろとあったことの経験から、合理的解法を求めているのかもしれない。むしろ、当事者となっても私自身を「いないものとして扱い」、第三者であることが「いい」と思っているのかもしれない。なぜなら、そうすることでしか、幼い頃生き残れなかったからだ。私は何かしらトラブルが起こったとき、感情を発散させるほうを選べなくなった。「感情」とは罪悪感――なのだろう。しかし、自分がどの位置にある「感情」を抱いているのかがわからないから、精神疾患抑うつ)や身体症状として顕れるのだろうか。
またそれが原因で状況の板挟みとなることは多い。こういった場合は、当事者が第三者としてあるのではなく、環境から考えた第三者が仲裁することがよかったのだろうと今になっては思うが、染み付いた性向はいつまでも変えられない――どうしたらいいものかと悩んでいろいろとモデリングをして最適解を模索している。

ブクマコメントのお返事

感情を発散させるほうを選べなくなった ――私も小2ごろからそうだなー。そして嘘泣き/嘘怒りもできないので、ただニヤニヤ。それは他者に近づきすぎないことを意味する。

mindさんは小2のときのことを覚えてるんですね……mindさんと同じかはわかりませんが、私の場合では同様の年齢ぐらいから他人の状態、自分の状態が別世界のような状態だったのを覚えています。
描写が難しいのですが、視点を浮かせて、茫洋とした視線で身体感覚がない――ってこれは多分解離状態離人状態だったのかもしれません。その頃から、暴力的な絵やアニメで凌いでいたという。
嘘泣き/嘘怒りっていうのもあるんですか……。泣くときは苦しいから泣く、怒るときも苦しいから怒る、というものだとばかり思っていました。つまり、私にとって全ての感情は身体感覚にもあらわれるくらいの苦痛を耐えて、それでもなお耐え切れない場合に爆発するというようなものなんです。ただ、この場合「発散させるほうを選べなくなった」というよりも、最近「発散すると何も生まれない」という信念に基づいているもののような気がしてきました。これでかなり自分自身を削って、むしろ他者に迷惑をかけることになっている気がします。
私自身、態度では「他者に近づかないようにしよう」というのがわかってしまうのかもしれません。仮に近づいたとしても「私自身」としてどうしても語れて居ない気がする。
ただ、中立は「欲望」と「欲望」の間から入ることがあって、しかも少数派の中でも態度としては大変な役になることから、両者からは「態度」そのものを理解されないことがあります。外部からは、説明なしではどの「位置」として存在しているのかがわからないため、どのように見られているか、ということは把握することも必要なのだと思います。
mindさんは近づきすぎないとしても、中立的な態度を心がけているところを私は好きだと思っています。