シンタグマティズム性による統合とメタ物語

やっと読めた。「ゲーム的リアリズム」は、私自身興味があった。

このようなメタ物語的な詐術は、作品を環境から孤立させ、物語と現実を対峙させる自然主義的批評では捉えることができない。そして、その働きを把握できなければ、キャラクター小説や美少女ゲームが、表面的には明らかに非現実的な物語しか語っていないにもかかわらず、なぜ今若い読者の実存的な投射の場所になってしまっているのか、その理由も理解することができない。『ひぐらしのなく頃に』のご都合主義的な物語のしたには、物語外の現実とつながった感情操作のメカニズムがあり、私たちはそこにこそ、作家の現実感や世界観、多少大げさな言葉を使えば、一種の「哲学」を読み取ることができる。そしておそらくは、読者もまたその「哲学」を直感的に理解している。たとえば筆者の考えでは、『ひぐらしのなく頃に』がオタクたちの支持をかくも急速に、かつ熱狂的に集めたのは、竜騎士がまさにその部分で、二〇〇〇年代の彼らの生をとても力強く肯定してくれたからである。

以前も書いたことと同様のことになるけれども、やはりこれも作者自身にとっての「何かからの闘争/または逃走」であったのだろうと考えている。「何かからの闘争/または逃走」というのは、実在として逃げたいもの、戦っているものがあるというわけではなく、そう「する対象」を直感として――このあたりはうまく説明が出来ないのだけれど*1――仮定し、その仮定から「何かからの闘争/または逃走」を行う、それがある種の大げさにも見える一種の「哲学」を感じ取るのではないだろうか、と考えている。
物語自体が、「望んでいるもの」――いわゆる、幸福、信頼、友情などの言葉による現実に「得られにくいもの」とされるものからの「開放」でもあったすれば、それは、「作者」と「読者」との同時性を持った、それの理解に直感を持った「シンタグマティズム syntagmatism」性を持ったものでもあったのかもしれないとも考える。「仮定」した全体(作品のテーマ性)をひとつの箇所にとどめ、そこから新しく「仮定」した全体へと再び「開放」する、というものが同居している。「ひぐらしのなく頃に」という作品も、読者の現状に即応した「物語」として評価を受けていると感じている。もちろん、それらはエンターテイメントとしての演出がより魅力を高めている、ということがもっとも重要でもあるのだけれど、「現状」を仔細に分析し、それらをエンターテイメントとして仕上げる、という作業はある種の「シンタグマティズム syntagmatism」的心性――人間を観察する、というところからはじめなければ出来ないことだろう。
また、”以前は”実際に「大きな物語」はあったのか、またはあるのか――という疑問もある。私は、データベース消費によって記憶したものは重複しながらも物語は断片として重なり合っている、ということ自体はまったく変わりがないようにも思う。多くが細分化し、言語によって活動が分断化されたことにより、生活圏に存在したコミュニティが一人を常に束縛出来なくなったことによって、「大きな物語」自体も、細分化せざるを得なかった、ということではないだろうか。
仮に「大きな物語」を喪失しているとすれば、その物語へと向かうカタルシスは「大きな物語」への断片的な会得ということになるのかもしれない。しかしそれはただの断片であり、現実と物語には、常に断絶的なものが横たわり、物語は物語として完結している。「断片」というのは「経験」や「世代」「コミュニティ」「地域」などによって、それらは重複しながらも断片として重なり合う。また、一日によっても物語の消費と構築の数は違う。
「大きな非物語」がデータベースから読み込み消費されたままであるとしても、それはおそらく、再度「大きな物語」を再構築するためのデータになるだろう。それらは忘却されるわけでもないが、断片として存在しているから、決定的にデータベース的にならざるを得ないだけなのかもしれない。「あの作品はこんな物語、この作品は感動」というように――仮に、それら「物語」がデータベース消費とされていても、ひとつの物語は記憶に残るだろう。それによって、断片の重複として自己になんらかの、または「大きな物語」を再構築するための断片的物語を無意識に内包しているのではないかと考えている。データベース消費に欠けているものがあるとすれば、それは「統合」といわれるものだろう。

しかし、その動物的でデータベース的な環境においても、以上のような構造的主題に足場を置くならば、あるていどの批評的な議論が可能になるのではないかと思う。というのも、第5節でも述べたように、ここに示された構造的主題の差異は、物語と現実を共に規定する環境から議論を始めるがゆえに、作家がそれを意識していたかどうかとは関係なく、また物語そのものの主題とも関係なく、より直接に、ポストモダンに生きる私たち自身の生の条件に対する、各作家の感覚の差異を反映しているはずだからである。そこにこそ新しい批評の対象がある。

データベース消費になったとされる現在においても、「大きな物語」への構築に向かう方向性というものはあると思う。それを「脱構築」しメタ的にそれらを「再構成」するもの、主体から行われる物語の統合、というものが「ゲーム的リアリズム」であり、メタ物語として語られるものであるのかもしれない。

*1:私は、それが欲望対象/恐怖対象として存在しているものに対して否定→肯定へと導くものかもしれない、と思いつつある。