集合の知覚/メタ視

顕在化不安と現存在不安/ジレンマとパラドックスの続き。

メタ視点と適応的選択行為


メタ視点とは、前提として「共感」「共通認識」に加わることが難しいからではないだろうか、と考えている。「共感」と仮定した集団をメタ視座からの「reading」として顕れていることによって、その視野を獲得せざるを得なかったという「適応的回避」、もしくは「適応的選択行為」なのではないか、必然性が伴うために「メタ視」という方法を選んでいるのではないだろうか。これは特別に限ったことではなく、単に個が集団から分断された際、場を集団として知覚する、という単純な行為がメタ視点としてあらわれる。集団の内側と、外部にある知覚そのものが、それを繰り返すことによりズレていくのではないだろうか。*1
集合Uが位相として存在していると仮定し、集合Uがジレンマによって位相を形成した場合、Pがその位相から外れることがある。また、パラドックスによって集合Uから個が外れることによっても位相は形成される。「共感」によって成り立つのは集合UからPが遠距離ということが前提としてあり、「共通認識」によって成り立つのはPが集合Uから遠距離であるということが前提としてある。
個々の「記憶」と「経験」の蓄積、「外傷」、または「状況」、「プライミング効果」などの前駆段階から、対象を「メタ視点」として集合Uを場として感知し視るようになるのではないだろうか。
関係性を持っている集合にとって、「共感」「共通認識」によって各々同期された「記憶」の想起から、文脈が社会的な関係性の解釈に読み込まれる可能性がある。これがミラーリングミラーニューロンによって起こる視界(世界)の選択だろう。この視界(世界)と認識のズレとして、光の速度で起こる操作に脳内伝達物質がうまく働かなければ、『場』の制御機構が連続的な働きとして行われず「注意欠陥」「注意散漫」という状態に見えるようなことになるのだろうと考えている。

緩やかな勾配を持った楕円状のもの、親・親友・友人・同年代・カテゴリn……人間・生物などの<二義的なアプリオリ>は、「共感」「共通認識」などによって他者からのD(Dissimilation)-A(Assimilation)とR(Repulsion)-R(Receipt)を常に繰り返し、常に「同化」「受容」する『中心』を求め、<二義的なアプリオリ>とするべき「場」を求め楕円の周囲を円環する。また、この円環は、先ほどのメタ視による適応的選択行為による、順繰りの「選択」と相似し、I(わたし)から時計回りに廻り、再びI(わたし)へと戻る。それは螺旋にも似た構造を描く。
ここにある「発達 advancement」とは、0(自己)から1(他者)へと概念を移していくことによってcategory(n)を組み替え、<二義的なアプリオリ>の<位相の移送>の距離を、他者による絶対的な介入を必要とすることなく短縮することが可能となる状態を示している。1(他者)として規定されたcategory(n)は、Hobby, Occupation, Local, Nation ,Race などのさまざまな社会的規定概念からなる。「任意定数」をそれらcategory(n)に癒着させ、位相を徐々に「目的」の位置へとズラしていくことによって距離を縮小――または近づけていくことによってコミュニケーションを行う。この「目的」の位置へと移送をズラしていくことを「コミュニケーション」として扱い、常に感覚場を「異化」から「受容」へと変更されるものを「共有する」という前提によって求める行為を、「コミュニケーションを行う」ことであろうと考える。
コミュニケーションによって、「共感」という「同化」とその「受容」により「自己肯定感」が知覚され、また「共通認識」という「同化」とその「受容」により「社会的承認」が知覚される。この場合、Pが必然的に「異化」「反撥」されることを排出<トラッシュボックス>とする*2。集合Uがジレンマによって位相を形成した場合、「自己肯定感」の「反撥」によって個が位相から外れ、パラドックスによって集合Uから「社会的承認」が「反撥」され、個が外れることによって位相が形成される。そして、それら視座を<二義的なアプリオリ>として他者からの「同化」「受容」として落着した場から、集合Uへ「メタ視」、t=1時点としてt=0時点を「場」として知覚することにより、行為として介入していく。

場の流動性と運動

集合Uを「共感」とすれば集合Uの集合V+nが「メタ共感」になり、集合Uを「共通認識」とすれば集合Uの集合V+nは「メタ共通認識」として捉えられるかもしれない。また「メタ共感」同士の「共感」「共通認識」というものも存在する。そうすると、「共感」「共通認識」は「場=集合U」となりそれがt=0となる。また、それに対して個々人の距離と位相を相対的に持つメタ視の「メタ共感」「メタ共通認識」による場が「メタ場=集合V+n」となりそれがt=1であると定義できる。
そして、集合Uを集合V+nから見ることによって、それらが一見集合として伴った「場」として知覚される。これが多分、個人知覚内にある「メタ視」なのだろう。そして、それら「メタ視」は集合Uという「共有場」が存在し、そこから集合V+nである限りそれらを「場」として知覚し続ける。
ここに頻出する「場」とは「状況」のことであり、それは容易に変更されうるものと仮定している。Ui、U'i、Vi、V'i、U'ni、V'niの場を示す関数は、相互に干渉し、また相互に解体しながらも動的な運動となる。これら「状況」は、場を知覚する個Pの演算とメタ視として存在する<二義的なアプリオリ>を軸に注意選択が行われる。後に、そこから外部O'へと働きかけ、エネルギーの手渡しを主体に渡すO、干渉O'はPに働きかけ、またはPへと働きかけることによって、注意の再帰的選択と「状況」の位置は変更していく。
また、V'niという<二義的なアプリオリ>の「場」に遠距離として存在するO'が、Pに干渉すると、その距離にあるエネルギーによってPがそこから脱出する「場」として選択することでエネルギーの手渡しは順繰りに行われる。場は比較的落ち着いた流動性を見せる。
また、Pがそこから脱出する「場」を選択する要因となる「任意定数」が不在している特異点である場合、もしくは選択できる「場」がPの持つエネルギーよりも遠距離である場合によって、エネルギーの手渡しはそのPとしての特異点によって停止する。
「共有場」を保つための繋がり「共有率」を、「任意定数」の「共有可能な互換性」と定義する。「共有率(c)」とは、仮に「任意定数」をeとするならば、a(共有場)がb(個)を異化すると仮定すると、「c=e・b/a」が成り立つ。また、b(個)がa(共有場)を異化すると仮定すると、「e=c・a/b」が成り立つ。
「場」はそれだけで閉じられ循環する構造でありながら、排出し取り入れるという、差異の排出口<トラッシュボックス>がある。この差異を排出する率を排出率と定義する。「共有場」が確固としたものになることによって、「差異」の排出率はあがり、共有率が高まることによって排出率も上昇すると考えられる。この場合、「共有率」と「排出率」は同値とする。
「共感」「共通認識」は、その特異点流動性に分離することに耐えることが可能な程度の共有率を持つと仮定するならば、「メタ共感」「メタ共通認識」などの「場」は共有率が小さいとするならば、仮にその接合の力より強いエネルギーが加わることによって分散すると、再度Pへと落下地点へと落ちていく重力が備わり向かっていくことになる。この場合、Pは周囲の落下するエネルギーから逃れるエネルギーを持つ「場」を持つことができない。そのため、Pの「ブラックホール化」が再帰的に行われることとなる。
また、<トロイの木馬>はPから発現するか、もしくは「場」から分散した個がそれぞれ<トロイの木馬>を「場」としてし、それを個々が干渉することによって内面化する。これが「共同行動」となる。
その<トロイの木馬>から「ブラックホール化」と「共同行動操作」が成立するには、V'niという「遠距離」として存在する「場」からO'が干渉する必要がある。V'niにとってのO'はPとの対応関係を示している。これは、「外傷体験」の再帰的強化記憶である場合と、<二義的なアプリオリ>による対立構造から生じる欲望/被欲望としての関係性であり、またそれはPにとっての差異、O'にとっての差異として現前する。

カオス循環 Chaos circulation


「場」に対応する対称的な存在としてのO'の距離エネルギーが存在する場合、「情報の錯綜」「場の分散」という二つの条件が出揃うことによって、周囲の「場」の持つエネルギーは、<トロイの木馬>を容易に内面化し、排出口<トラッシュボックス>へと送り込むことが常態となる<カオス循環 Chaos circulation>となり、非常に流動性の高い、場が常に乱れ安定することなくエネルギーが衝突しあう性質を備えることとなる。
「任意定数」の棄却と採用によって「共感」「共通認識」が形成されるのが、秩序化された<二義的なアプリオリ>において通常であると仮定するならば、「情報の錯綜」とは、この「任意定数」が顕在化することによって互いに「転移」しあう状況を示している。また「場の分散」とは、「任意定数」が「情報の錯綜」によって顕在化した後、「共感」「共通認識」の「任意定数」が個々内部に内在化することによって、個々の結合が分離することを示している。
これら「情報の錯綜」「場の分散」という性質によって、<カオス循環>では「分断線」が常に綻びとして生じることにより<iの方向>から「共同行動」としての、「任意定数」による「共有率」の同期が発生する。<トロイの木馬>は終始一貫性のある目的を与えられるため、同期する<トロイの木馬>への個々の干渉そのものによって「場」から「長期的」なある一定の方向性を持ったエネルギーの内面化が行われると考えられる。<iの方向>は、逆に「短期的」なものであるというのが、その違いだろう。
「情報の錯綜」「場の分散」によって「場」が「短期的」な流動性を持つということは、個々の「任意定数」が常に棄却・採用されながらもその「場」におけるt時が流動性を持っている状況であると考えられる。<iの方向>が示されその都度「目的」となるiを自己へと組み込むことによって、自己そのものを「場」とするようになることを「自己場」と定義する。
これが、最終的な<カオス循環>の状況を示していると考えられる。個々が<心のセキュリティホール>自体を<トロイの木馬>とする状況になると、U'niの「場」にあった「場」「メタ場」によって結ばれた「共有場」を、「メタ」として視る個が存在しなくなる。フラットとなり、<二義的なアプリオリ>としてのU'niそのものが消失する。またU'niに存在する個は、U'niの「場」に存在したエネルギーを個として内在化する。<iの方向>を内面化し無自覚に同期することによって、個は互いに情報の記録が行わることがなくなることにより、互いに転移しあう情勢を示すようになる。個は<心のセキュリティホール>自体を、個のみに作用する<トロイの木馬>とすることにより、「自己場」の「ブラックホール化」が再帰的に行われるのではないだろうか。俗にいえば、「任意定数」の<位相の移送>が行われることのない「場」が「自己場」であり、それ自体で成立する「場」に近い状態となる。
V'niという<二義的なアプリオリ>の「場」に遠距離として存在するO'へと個が向かう場合、それ自体が「遠距離」として存在しているため、ジレンマと逆の、「均衡 Balance」を持っている。つまり「任意定数」による距離が遠いという前提がはじめに存在するため、U'niにあるエネルギーは次第に散逸していく。散逸した個はそれぞれ互いに「共有場」を持ち合わせることによって、時間(t)経過と共に個々人が少数の「場」を位相として作り上げるエネルギーとして利用するようになると考えられる。

全体の穴 Entire hole

これらU'ni、V'niの距離として発生する距離を「全体の穴 Entire hole」とする。主体が「メタ視」として知覚するには、この<位相の移送 Transportation of Phase>が<カオス循環>から「任意定数」の棄却・採用によって生じた「分断線」に、「任意定数」そのものを持ち込み可能であるかどうかによって決定される。また、「分断線」そのものはU'niに微細に存在しているため決定的な「分断線」とは言いがたいと考えられる。この場合、U'ni⇔V'ni間に存在する「距離」そのものを「分断線」ととして顕在化することを「全体の穴 Entire hole」とする。
「全体の穴 Entire hole」は、V'niのO'からU'niの特異点として存在するPから、「場」のiをOへと反射し脱構築し、「遠距離」という前提を「近距離」前提に覆した後「目的」と目的化されたものから止揚されたものを拾い上げることにより顕在化する。
また、U'niにとって、V'niは「全体の穴 Entire hole」としては存在しているが、「目的」ではない。それが「目的」となるには、V'niに対するエネルギーを十分に持つ「場」を創り上げるか、もしくはV'ni内部から、U'niへとV'niが行ったことを再現する必要がある。
「全体の穴 Entire hole」とは、「和解」「妥協点」であり、それによる方向性から、新たな「場」をU'niのエネルギーによって「目的」という秩序が創り上げられる。