説明書き

私は”「偶然」と読み取るという事象が理解できない”ことで「疲れる」ことが多い。偶然があるということは「社会性」を持つ、ということなのでしょう。「偶然」と理解する、ということには重要な要素がある。それが「自分にあてられたものではない」という感覚。つまり「気にしないように」とは「偶然」という認識を念頭に置いている。この「偶然」を「共感」として適用しているために、「気にしないように」という感覚を共有するのだと私は考えている。けれども、そう読み込まれるということはそれ自体で「社会性」を持ち、含まれているということ。そして、その「社会性」に気づくのが、私はワンテンポ遅い。いつのまに、そんな風に思われていたのかと思う。そして、「言葉として怒りとして指し示され」ようやく「自分のことだったのか」と気づく。
付け加えると、私は「パーソナリティ」を把握できたうえで行動し、情報がよいものならばいいと思う。そしてそれはひどく個人的なものでしかない。個人的に動く人間は、個人的な人間として世界をみているため、第三者として認識を共有すること自体に加わりにくいのです。
また、私には特殊や感情や繊細な感情はありません。私はパーソナリティの内的評価を言葉ではなく、言葉を放つときの状況や態度も含めて理解します。また、それは文脈や一文だけでなく、時間をかけながらその対象を観察してようやく見えるものでしょう。
また、私は罪悪感に訴えるものがあることに逆らえない、というものがあります。仮に冗談であったとしても、それの区別ができないまま記憶に貯蔵されることでそれを意志に逆らえずに実行していることがある。自己評価というものがそもそもたぶんすごく低いために、他者評価=自己評価と近い状態になってしまっている気がします。だから全ての評価を自分の基準としてしまって、それらを0か1かのパラドックスと考えてしまうことがあります。
周囲の誰がどのように私を評価していようと、私とコンタクトをとって私が「私の言葉である」と認識できた言葉というのはこれまでないと考えるので、それは、私の想いや望み、言葉ではありません。ただそれら言葉は、やはり個人が個別に判断して発言したものであると思います。個人主義というわけではないけれども、認識として個別判断で動いている、ということが前提としてあることは了承していただきたいと思います。また、私の言葉を絶対的なものとして扱う理由はまったくないのです。
説明責任、というのは苦しいものだと思いました。とる必要も、もしかしたら責任もないのかもしれないけれども、「とりたい」と私は考えたので述べることにしました。
また、「訴える」ことと「働きかける」ことが別問題であることは、前提として理解していただきたいのです。私は「訴える」=「働きかける」ということは記していませんが、誤解を招く表記であったと思います。「訴える」ことが法的に正当であるならば、それは私自身、正当であるという判断が個人にあるのならば、私がそれについて言うことはできません。
また、記述不足で無用な誤解や、流布によってこちらの情報が何らかの不正義に利用されたとするならば、それは私の責任なのでしょう。
以前から断片的な情報として「感想」がのぼり、それがタイミングを同期として似たようなことを述べていたようなことがありました。名指しが行われない批判などによって、おぼろげながら私の「情報」が関連付けられているのだろうか、と考えたことがあります。それが、私個人の妄想であるかそうでないかという判断がつかず、私のことではないのだろう――噂話しが「私」をメインにされることなどありえないと考えていました。さまざまなサイトでその情報を事前に確認するという決断をすることもできないままでした。それによって、最も被害を受けた方に謝罪いたします。
また、私は私自身の言葉として話したいので、やはり、なんらかに言及した方は、個人が自分の言葉として受け持つか、言葉の意図は私が言葉として出さない限り、そのような解釈はありませんし、また「解釈した個人」の意見として解釈します。ほかにもいろいろと考え方はあるのかもしれませんが、また考えがまとまれば、もっとこのような言い方にならない方法も見つかると思います。