情報と空気

個人名を明らかにして書けば、それはその人の個人的な意見になる。
ところが、匿名で何かを書くと、あたかもそれが社会の「空気」であるかのような錯覚が生じる。

茂木健一郎 クオリア日記: 情報倫理

茂木氏のこの批判は誤解される可能性があるかもしれない。
顕名、匿名としてではなく、個人的な意見と匿名による解釈に分かれる、といいたいのだろうと思う。つまり、顕名であれば周囲の解釈がどうあれそれは個人的な立場の表明であると解釈されやすい。社会的立場から読み込むことで、その人の「考え方」や「視点」が周囲にも容易に把握できる。けれども、匿名の場合「立場」であるのか「視点」であるのかという部分が解釈しだいでは判別しにくくなってしまう。偶然性、蓋然性を伴った「空気」がネットワークに広がり、「空気」という記憶と結びついた現在における想起が、真実として語られる――これが流言というものなのでしょう。そして茂木氏は、「空気」であるけれども、それが「真実」として語られることが錯覚された「鏡」であり、「特殊性」と云っているのだろうと思う。そして、その対処法として、総括した「匿名意見」――「流言」と成った意見は無視する、というのが茂木氏の考えなのでしょう。

「匿名で書かれた意見は、無視してかまわない」
極言すれば、そんな情報倫理を日本人も少し持ったらどうかと思う。

茂木健一郎 クオリア日記: 情報倫理

極論として、「そういう感覚もある」ということなのだと思います。そこから情報をどう受け止めるかは個人で違うということなのだと思いました。

情報の発信者と価値観

以下は、わたし
私自身は「情報」自体に自分の付加価値をつけないというのか、その「情報発信者」――個別の意見、感想、それぞれの持つ文脈そのものが、それ自身から/またはそれ自身に価値をつけていることに対しての「解釈」「価値判断」という「情報」を読み込みます。
記述を「事実」そのものであると仮定し、「解釈」は想起との照合、「価値判断」は照合されたデータのアウトプット作業とすると、「情報」に対しての「解釈」は、非常に個人的なものになりがちで、「そう解釈するしかできない」という点、また相手とのリアルタイムの意思疎通が難しい、という点で「解釈」の相互交換と更新が行われにくいため、自分自身の解釈を述べるしか出来ない、という意味です。
匿名でも、やはり「解釈」と「価値判断」の総体として「空気」は醸成しますが「流言」かどうかはわからない、というのならば、極論として「全て流言である」ともいえます。なぜならばそれらは「鏡」の総体として存在するため、実態を必ずしも表している、ということとは言い切れない。「事実」はそれら鏡の寄せ集めによってようやく見えてくる。
また、顕名であるからといって常に「流言」として扱われるようになるかもしれない発言をしない、ということは難しい。それがどのような流言に流用されるかは分からない。またタイミングによっても、それらが共時性というシンクロニティのようなものによって、蓋然性として読み込まれる可能性もある。それが「情報」であって、それ自体が「暴力装置」となるのでしょう。「解釈」と「価値判断」というものは、どのような発言にもつきまとうことだと考えます。
記述を「真」として見ることでそれらが「誇張」「どの程度の解釈を含んでいるか」「どの程度の価値判断を含んでいるか」ということについてミラーリングされた記述を精査します。それを記録し、また別に書かれたものを必要なときにまた判断し直し、そのズレを修正し続けて「実像」に近づけていく作業を行う。それはやっぱり、顕名であろうと、無名であろうと、匿名であろうと、やはり何らかの「事実性」に基づく実態を表しているはずで、それを考察することも「無視することなく」できるのだろうと思います。ただ、そう「理解」した上で「無視」するという判断はあると思う。
「空気」が「事実」になる、というのはおそらく「理解しがたいもの」に接したときに起こるのだと最近は考えています。つまり、「理解したい」ということの裏返しとして「解釈」が「事実」になる。しかし、それは「無視する」という方向ではなく、そう「想起された」「解釈された」ということであって、その総体の連続を「一個人」として表明しているということの裏返しであるのだろうと考えます。それが「クオリア」、個人の持つ感覚により近づくものであるともいえるようなものである気がします。